最近の話ですが、僕の母親は、アメリカ兵相手のキャバレーをやってた頃の
写真のアルバムを沢山持っていました。
母親にその当時の写真が見たいから貸してくれと言ったら
全部捨ててしまったと言われました(涙
母親からあの当時の思い出を聞かされ事は無く
母親自体は、封印したかったのでしょう。
僕の立場から言うと勿体無いの一言です。
僕の原風景は、このような街並みから始まります。
第二次世界大戦の後の1950年に起きた朝鮮戦争で
沖縄はその補給基地として、かなりの好景気に沸きました。
その後には、ベトナム戦争が起きて、集結までは繁栄の時代が続きました。
沖縄の米軍基地の周辺には、こう言った飲み屋街が沢山存在しました。
あちこちにAの文字が見えますが
これは、アメリカ軍当局の管理の下に、衛生条件などに適合したお店に
許可したと言う証明書で、Aサインと言われていました。
アメリカ軍にとって大切な兵隊さんが利用するのですから
その人達を相手にする飲食店などは厳重な管理下に有りました。
その許可証が無いとアメリカ兵相手の飲食店は営業する事は
不可能でした。
勿論僕の実家もAサインの許可を貰っていました。
韓国などが、日本軍が従軍慰安婦の問題に関与していたと
未だに騒いでいますが、恐らく沖縄と同じだったのではないでしょうか。
どの国にとっても、兵士達は大切です。
彼らが利用する場所を軍が管理するのは当たり前です。
ましては、軍が強制的に拉致して売春婦にしたとなると
それの家族は命を掛けてまで娘を守ろうと
あちこちで暴動が起きたはずです。
あの短気な韓国人が、それを黙って見ていたとは到底思えません。
戦後何十年も経って、突然言い出して来た訳ですから
とても不自然だと思いませんか?
あっ話題が微妙な方向に行ってしまったので
話題を元に戻します。
戦後沖縄の通貨がドルを使われるまでは
B円と呼ばれる写真のような通貨が使われていました。
僕の年代では、殆ど覚えていませんが
僕はかすかに覚えています。
父親にB円を持たされて、DOMINOと言う沖縄産のタバコを
買いに行かされた記憶が有ります。
その後の通貨はアメリカドルに変わりました。
ドルから円に変わったのは、1972年頃です。
僕はその年に東京の大学に進学しましたから
円の価値が分からず、頭の中でレート計算していて
これは何ドル位だなと確認して買い物していました。
いきなり琉球時代の衣装を着ている女性達の写真が登場しますが
辻町は戦前、遊郭がだった街で、その後はアメリカ兵相手の
飲み屋街に変貌しますが、伝統的なお祭りは、戦後続いていました。
廿日正月と言って、そのお祭りにはじゅり馬行列が有りました。
じゅりとは、琉球王朝時代の公娼の事です。
年に一度のお祭りの為に、沢山のホステスさん達が
毎日踊りの練習をしていたのを思い出します。
どうしてもこのような仕事は日陰的ですが
年に一度の晴れ姿を広く一般の人達にも披露するお機会に
ホステスさん達も大張り切りでした。
後年に婦人団体からの抗議で、このお祭りも長い事中断されていましたが
近年、このお祭りは、継続的ではないのですが、時々行われているようです。
さて、ネットで探した写真で、僕の心に懐かしさを感じる写真を
紹介します。
浦添市か宜野湾市に行く国道58号線沿いには
アメリカ人相手の様々なショップが並んでいました。
家具屋、テイラー、オーデイオショップ、車屋さんなど
その国道沿いはリトルアメリカと言われていました。
写真は、ペプシコーラの工場です。
ペプシコーラの日本法人はサントリーに買収されました。
工場は最近まで残っていましたが
最近取り壊されて、家具のニトリに生まれ変わります。
また一つ、僕の原風景が無くなってしまいました。
沖縄市のパークアベニューと言う旧センター通りの
ニューヨークレストランです。
その当時の姿では無いのですが、今もちゃんと残っています。
僕の近所だと、ジャッキー、ステイツサイズ、ジョージと言う
三軒のアメリカンレストランが有りました。
その当時は、民間相手にステーキを出すようなレストランが無い時代でしたから
芸能人やプロレスラーなどが来ると食べに来ていました。
ジャッキーは特に有名で、僕はジャッキーの前で力道山を見た事が有ります。
近所にあった三軒のレストランの内、現在地に在るのは
ジョージだけで、後の二軒は移転しましたが
ちゃんと存在しています。
僕の家は、ジャッキーの三軒隣に在りましたが
ハンバーガーを焼く匂いがして来る度に
大きくなったらレストランを経営しようと
子供ながらにずっと思っていました。
ガソリンスタンドです、その当時は
アメリカのカールテックス社が独占していました。
ですから、沖縄の人達は、ガソリンスタンドとは呼ばず
カールテックスと呼んでいました。
こちらも最近まで存在していましたが
惜しくも取り壊されて、今では優良老人ホームになっています。
終戦後は、アメリカ兵相手の大型のキャバレーだったそうです。
英語名をオーガストムーンと言って
マーロンブランドと京町子の主演の映画の舞台になった場所です。
その後は料亭松の下と名称を改め、日本人相手に主軸を移したようです。
その前には、拝所が在って、そこは僕の遊び場でした。
またそこの中庭には池が有って、うなぎを捕まえたりしていましたが
怒られた記憶はまったく有りません。
各基地の前に在った飲み屋街も大概は、こんな雰囲気だったと思います。
表は、アメリカぽく作られていますが
裏は瓦屋根の木造りですから、まるで映画のセットのようでね。
道路が軍道以外は舗装されていない時代です。
まるで西部劇に出て来そうな街並みです。
沖縄市の嘉手納基地の前の街には、アメリカ兵ファミリー相手の
ギフトショップが沢山有りました。
トミーチャイナと言う、日本の輸出用の陶磁器メーカーの
NORITAKEをメインに扱うショップです。
この写真は比較的新しくて、停車している車の型式などから
1980年代ではないでしょうか?
沖縄市の嘉手納基地のゲート前のゲート通りです。
この頃になると、ベトナム戦争の終わりと円高のせいも有ってか
アメリカ兵相手の商売に見切りを付けて
日本人相手の商売に切り替えるお店が増えました。
どんどん日本語の看板が目立っています。
今だったら凄い価値の有りそうなビンテージカーが
沢山並んでいますが、レンターカー屋さんです。
日本製の車はトラック以外は殆ど走っていない時代ですが
それにしても凄い車ばかりです。