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Posted by TI-DA at

2011年04月29日

アルテ崎山 菊池さんの置きギター RAIN SONG




これまだ何度も紹介して来た

那覇市首里にある、アルテ崎山です。

食事、雰囲気共に最高ですので

沖縄に居る間は、毎日入り浸っています。


戦う親父の応援団が縁で知り合った

菊池さんに、このお店を紹介したら

僕以上に気に入ってしまいました。





菊池さんは、以前にも

YAMAHA LL-10をアルテに置いてくれていますが

今度は、オールカーボン製のRAIN SONGを

置いてってくれました。


菊池さんは、今年目出度く定年を迎え

長年の夢だった、慶良間島に住む事が

実現しそうです。


菊池さんも、相当なギターマニアなのですが

湿気の多い、離島にMARTIN等を持って行くのは

ご法度だと忠告してRAIN SONGをお勧めしたのですが

何と、本当に買ってしまったのです。





オベーションのアダマスなどは、表板がカーボンなのですが

このギターはいかにもカーボンそのものの柄です。

ブリッジは、カーボンでは無くエボニーだと思われます。





指板もエボニーです。

ネック形状は、ナット幅は広めですが

厚みが薄くて、とても弾き易いです。





ボデイバックの窪みは強度対策なのでしょう。

ポリバケツの淵のような形状ですね。

内部を見ましたが、ブレーシングは

一本も見当たりませんでした。





ピックアップは、FISHMANのピエゾタイプがオリジナルで付いています。

ラインでは音を出せませんでしたが

生音は、以外と普通のアコギの音がします。

木製のギターのように、湿気や気温で狂いが生ずる事に

全く心配しないで良いのですから、便利です。


雨天ライブや、緊急時の水貯めにしたり

船のオールにしても大丈夫そうです(笑

久々に欲しいギターに出会いました。

  


Posted by goyaman at 23:15Comments(4)ギター

2011年04月29日

買っちゃいました。XPERIA ARC



僕は去年の12月にスマートフォンのLINXを購入したのですが

お約束のOSのアップデートがいつまで経っても行われず

イライラしていました。


いつものようにリサイクル屋回りをしていたら

何と、XPERIA ARCが格安で出ていたので

即お持ち帰りしちゃいました。

発売したばかりなのに

リサイクル屋に売った人は

どうしちゃったんでしょう。


携帯オンチの親父さんが

使っては見たものの

全く扱い切れずに売ってしまったのでしょうか?





OSも最新バージョンですし

CPUも現状発売されているスマートフォンの中では

最強の物が使われています。

動作もさくさく動いてストレスがありません。

カメラの画像もLINXよりずっと良いです。

これから出張にノートPCを持参する事は

無くなるでしょう。





画面が大きいので本体がLINXよりサイズが有りますが

薄いので持ち易いです。

HDMIが付いていますので、PCやTVに繋ぐ事が出来ます。

それにスマートフォン用の外付けのキーボードを

繋ぐ事が出来たら、パソコンの本体のような

使い方が出来るのでしょうか?


ご存知のように、先の東日本大地震の時は

東京でも携帯が全く繋がりませんでした。

被災地では、携帯が繋がらなかった為に

助けを呼ぶ事が出来なかった人達が

多かったと思います。


東京に居る娘達とは、スマートフォンで

FACE BOOKを使って連絡を取り合っていました。

携帯が使えなくても、SKYPEは使えたようですから

防災対策上、スマートフォンは必須です。

三ヶ月で買い換えたとしても

贅沢とは思っていません。


今まで使っていたLINXは

長男嫁にあげちゃいました。

突然のプレゼントに

嫁が大喜びしてました(笑  


Posted by goyaman at 01:10Comments(2)一般

2011年04月27日

MARTIN D-35 1970年製&MARTIN D-41 1970年製



今日は、アコーステイックバー ブガベアに行って来ました。

震災以来、ギターを弾く気持ちも失せていましたが

久しぶりにギターの話で盛り上がりました。

久々のMARTIN三昧です。



僕がリサイクル屋で見つけたD-35です。

ボデイバックには二本の長いクラックが入っていて

ブレーシングも殆どが外れかけていました。

単なるギター好きが手に入れて

リペアをせずにそのまま持ち続けていたら

多分、崩壊したでしょう。


そのD-35が悲鳴をあげて

僕に助けを求めている気がして

即お持ち帰りしました。


その後友人のリペアマンの小野君に

完璧にリペアして貰いました。

リペア後のD-35の音は期待通りでした。






ピック弾きでもフィンガーでも

一弦から六弦までの音量のバランスが最高です。

弾き語りには最適だと言われているだけあって

歌の邪魔をしない音色です。

以前バックがスリーピースの

D-76を持っていましたが

同様に優しい音色です。





この年代のMARTINは、ネックの仕込み角度が浅く

最初からサドルの高さが低めですので、経年変化でブリッジ周りが

少しでも浮いてしまうと、弦高を下げる為にサドルを下げると

サドルの高さが足りずに、テンションが取れず、ペチペチした音に

なった状態のギターが非常に多いです。


このギターは、サドルの高さが高いので、素晴らしい音で鳴っています。

多分、過去に、高額のリペア料を払って、ネックリセットが行われたと思います。

この状態ならば、後数十年は、ネックリセットの必要が無く持ち続ける事が可能です。

MARTINのギターをビンテージだからと言って手を出してしまう人は多いと思いますが

ネックの元起きは勿論の事、サドルが低いギターには絶対に手を出しては駄目です。

ネックリセットにかなりの金額が掛かってしまいます。





MARTIN D-41 1970年製です。

彼が昔から持っているギターです。

表板がジャーマンスプルースです。





D-45同様、ジャーマンTOPは

1968年から1974年前半までの

短い期間しか使われていません。

ですから中古でもかなり高価です。

表板がシトカスプルースのD-41とは

同じ型番のギターとは思えない位

音質が違います。


このギターに出会った事がきっかけで

ギターの表板の材料が

いかに音質を左右するか

気付かせてくれました。





バックサイドのローズウッドも

近年物と比べて木目が濃い

上質な材が使われています。

音は固めですが、かなり太い音がします。

軽くリードを弾いても驚くほどの音量です。

ピック弾きで、力を入れて弾いても

音が暴れません。





彼自身も当時中古で購入したのですが

ペグのつまみは、グローバーなのに

シャーラーのつまみのように

プラスチックの物が付いています。

形状から言ってグローバーの純正の部品のようです。





その当時に、こう言うつまみが売っていたとは驚きです。

グローバーのペグにかなりのフィット感で作られています。






  


Posted by goyaman at 02:17Comments(2)ギター

2011年04月26日

MARTIN D-18 SPECIAL 1989年製



二十数年前の事です。

僕は中学校からアメリカ兵相手の

PAWN SHOP(質屋)に通い詰めていました。


目的はアメリカ製のギターを見る為です。

質流れの中古と言えども

学生の僕には買えるはずも無く

質屋の質屋に取っては

商売の邪魔者に過ぎません。


ですから、いかに質屋の主に

嫌われないでギターを見る事に

学生ながらに気を使いました。


大人になって稼げるようになってからは

通い詰めた質屋でギターを買うようになり

質屋にとって上得意客になったようです。


ある日、質屋の主から僕の携帯に電話が有りました。

内容はアメリカ人がMARTINのギターを

買い取り希望で持って来たけど

欲しいかとの事でした。


ただし、ギターの状態が相当悪いと言われたので

早速車を飛ばして質屋さんに見に行きました。

ギターのTOPには何本もクラックが走っていていました。

ブリッジ下の表板に10円玉大の穴が開いていて

木片がギターの内部に落ちていました。


あまりの状態の悪さに、がっかりしながらも

弾いて見ると、音が凄く良いのです。

幾らなら売ってくれるのと聞くと

何と三万五千円で売ってくれると言うので

早速お持ち帰りしました。

あの当時、地元の沖縄にリペアマンは居なくて

開南楽器さんと言うお店の主で

バイオリンを作っている方に

時々ギターのリペアをお願いしました。


僕がお願いしたのは、ネック調整だけでしたが

リペア後のギターを引き取りに行くと

無償でTOPの穴を埋めてくれていました。

主は、ギターが可哀想だったから

サービスで直して置いたからの一言でした。

本当に有り難いです。





この写真は開南楽器さんが直してくれた穴の部分です。

僕は良い音でさえあれば、見た目は気にしないですので

直した後は分かりますが大満足です。




ギターの材は、とても良い物が使われています。

バックサイドのマホはとても濃い色で


表板は、D-45クラスに使われている以上の細かい木目です。

一瞬ジャーマンスプルースかとも思いましたが

焼け具合からするとシトカスプルースのようです。





通常のD-18のポジションマークはドットですが

このモデルには、ダイヤモンド型が施されています。

ブリッジと指板は、自信はありませんがハカランダのようです。





サウンドホールから紙製のラベルが見えます。

手書きでCF MARTINとサインされています。

側板には、通常でしたら紙製の割れ止めが貼られていますが

珍しい事に、ローズウッドが使われています。


何故レギュラーのD-18より素晴らしい音がするのか

後で分かったのですが、内部のブレーシングを見たら

フォーワードシフトのスキャラップでした。

今で言うMARTINのビンテージシリーズの

先駆けとなったモデルかもです。


ネット上で色々調べて見ると

このモデルは、1989年にGuitar Of The Monthとして

26本だけ作られたようです。

後、変わった所は

バインデイングがセルでは無く

何とマローズウッドが使われています。

不況から立ち直りつつあったMARTIN社が

とてもこだわりを持って作った

ギターだと思います。


このギターは、長渕フリークの息子が

ストリートなどに使っていて

落としてサイド割れを起こしたりで

リペアに買った金額の何倍ものお金がかかりましたが

けして後悔はしていません。


息子も結婚してギターを殆ど弾かなくなったので

壽屋音次郎さんに差し上げるつもりで

お店に置いて貰っていましたが

お店をクローズして本土に引き揚げるのでと

固辞されたので、先日引き取って来ました。





このギターは息子にとって

青春そのもので有り

僕にとっては、音次郎さんと

一時を過ごさせてもらった、思い出のギターです。


ミュージシャンとして全てを削ぎ落としたいと

言っていた音次郎さん

これから東北の被災地に赴く事になりますが

きっと沢山の人達を元気にしてくれると思います。

BJさんと東北で再会出来れば良いですね。  


Posted by goyaman at 03:21Comments(2)ギター

2011年04月25日

東北の被災地に駆けつけるBJさんへ

BJさんは、音次郎さんのお店で知り合った
お医者様です。
音次郎さんのメインギターのスーパーアダマスを
必要な時には、何時でも返すからと
買ってくれた優しい方です。

先ほどメールを頂いて返信しましたが
上手く返信が出来ませんでしたので
ブログ上で返信させて頂きます。

BJさんは、沖縄から引き揚げて本土の病院に
勤務する事になったそうですが
その前に、東北の被災地に行かれる事を
音次郎さんから聞いていました。

被災地に赴いたBJさんからメールがありました。
BJさんは、は現在、沖縄県医師会医療救護班の一員として
岩手県大槌町の避難所併設の診療所で
寝泊まりしながら医療活動を行っているそうです。


>南の島でギター談義に花を咲かせた3人が全く違うアプローチで
東北に関わることになるとは、不思議な感じがします。

同じ日本人なら、被災地な過酷な状況を見て
居ても立ってもいられずに
それぞれが出来る事を実行したのですね。
BJさんは医療、音次郎さんは音楽
僕は今後もフットワークを活かして
支援続けます。

実際に被災地に行って見ると
言葉では言い尽くせないような悲惨な状況に
ただただ涙するばかりでした。

被災地が余りにも広範囲で
津波で着の身着のままで避難した人が殆どで
避難所で物資や医療の落差が激しく
まだまだ多くの人達が苦境の中に居ます。

BJさん、どうか一人でも多くの方達を
助けて頂きたいです。
被災地で必要な物は刻々と変わっています。
音次郎さんも、もうすぐ駆けつけて
多くの人達を元気にしてくれると思います。
メール有難うございました。


  


Posted by goyaman at 18:02Comments(0)東日本大震災

2011年04月25日

MARTIN D-18 1938 CUSTOM アデイロンTOP




先日TOさんと言う方から

東海楽器さんのキャッツアイ 000タイプのモデルの

表板の材質がアデイロンTOPかどうかと言う質問がありました。

写真を送って頂いたのですが

独特の木目の形状からアデイロンダックスプルースに

間違い無いと結論に達しました。


僕はギターをだいぶ処分しましたが

アデイロントップのギターだけは手放せません。

粘り強く、レスポンスに優れて、音の分離感も最高で

芯のある図太い音が気に入っています。

MARTINのビンテージでもの凄く高額なのは

プリフォーのアデイロンTOPです。

その事からもいかに優れた材か理解出来ると思います。





一枚目と二枚目の写真をご覧になると分かるように

通常のスプルースの木目の上から

ランダムに濃い木目が走っているのが分かると思います。

後は経年変化による日焼けの色は

シトカスプルースのように茶色にはなりません。




木目の美しさから言うと

シトカスプルースやジャーマンスプルースと比べて

けして美しいとは言い難いです。

一般的に木目の狭い材が良質とされますが

アデイロンダックに関しては

そうとは言い切れないと思います。

アデイロンTOPのMARTIN OMC-18LJを2台所有していましたが

木目の広い物の方がボリューム、倍音、残響感が

ずっと優れていました。


このギターは、MARTIN D-18GEと材は同スペックですが

ナット幅がGEに比べて狭いです。

以前D-18GEを所有していましたが

歳を取って握力が落ちて

ナット幅の広さが苦痛になって来たので

HOBOSさんで売って貰って

このギターに買い換えました。


D-18では有り得ない位、低音が出ますし

高音弦の音も太いです。

目隠しして聴くと

誰もD-18の音とは思わないでしょう。

アデイロンTOPとマホの組み合わせは

最高だと思います。

このギターはOMC-18LJ同様

手放さないつもりです。  


Posted by goyaman at 12:15Comments(0)ギター

2011年04月24日

2011年04月22日

久々のアコギネタ キャッツアイ000モデル




このブログは本来、アコギ関係の話題がメインですが

先の震災以来、ギターに対する気持ちが萎えてしまっていました。


先日、同世代の方から

キャッツアイの000モデルの表板が

アデイロンダックか否かと言う

写真付きのメールを頂きました。

キャッツアイギターの製造元である東海楽器は

MARTIN社が不況に喘いでいる時代に

ライセンス契約をして

本家に勝るとも劣らないギターを

ブロダクトしたは、ギターフリークならご存知だと思います。


その当時の東海楽器の社員には

MARTINフリークの方が沢山居て

本家より前に、ビンテージスタイルの製品を

発表していたように思います。


しかしながら、カスタムオーダーで

TOP板がアデイロンダックの選択をする事が可能だったとは

正直、びっくりです。

ネットで調べましたが、紛れも無い事実のようです。

日本の楽器メーカーでは

最高級機種でも蝦夷松やジャーマンスプルースは

使っていたと思いますが

アデイロンダックの材を用意していたとは

さすが東海楽器さんですね。




さて本題に戻りたいと思います。

ペグはシャーラー製

TOP板にの縁には見事なヘリンボーンが施されています。

サドルはロングサドルでMARTINの000-28ECに近いですね。


表板の写真を拡大して見ましたが

幅広の木目は、シトカスプルースの

18シリーズに用いられているのと同様です。


しかしながら、シトカスプルース特有の

均一的な色目の木目では無く

ランダムに濃い木目が縦に走っています。




これは紛れも無くアデイロンダックスプルースですよ

アデイロンダックの特有の木目の見方は

ギターを建てた状態で

斜め上から見ると

くっきりと浮き立って来ます。


中古で購入されたとの事ですが

凄いギターに巡り合いましたね。


勿論、音質重視で選ばれたと思いますが

とても耳の良い方だと思います。

久々に日本の名機の出会い

興奮させて頂きました。


持ち主の方は、僕と同世代で

50歳を過ぎてから再びギターを弾き始めたそうです。

若い頃、持てなかった

GIBSON J-45やGUILDを購入した時の喜びが

こちらまで伝わって来ました。


また一人アコギ好きの方と知り合いになれた事を

嬉しく思います。

  


Posted by goyaman at 13:41Comments(4)ギター

2011年04月19日

原子力発電の未来を問う!チャンネル桜より

原発事故は、人災だと思っています。

今、東京に居ますが

毎日のように楽天的なニュースと

悲観的なニュースを交互に流されると

政府の発表が益々信じられなくなります。

ネットの情報も同様です。

様々な学者や専門家が相反する意見を述べています。

例えば稲博士と言う方は

福島の原発で漏れ出る放射能は

何ら問題無い範囲だと述べていますが

どうなんでしょう。

まずは稲博士の講演の動画をご覧になった後

チャンネル桜で放送された討論番組を見て欲しいです。











  


Posted by goyaman at 02:21Comments(0)東日本大震災

2011年04月16日

ポスタープロジェクト 復興の狼煙



偶然見つけました。

慎み深く、粘り強い東北人らしいポスターです。

以下転載です。


きっかけ



「自分に何が出来るだろう?」

そんな自問が始まりだった。
すぐに答えが見つからない事なんて最初から分かっていた。

何も出来るわけが無い。
そう結論づけても、誰も自分を責めやしない。
それ程の事が起こったのだから。

でも、あきらめるのは悔しかった。
何か出来る事があるはずだ。
根拠の無い確信みたいなものがそこにあった。

盛岡から、被害の大きい沿岸部の人達にできること。
悩んでも悩んでも悩んでも、答えはみつからなかった。

携帯が鳴った。
友からだった。

悩んでいたのは自分だけじゃなかった。
急に勇気が湧いてきた。
そして、僕たちは動き出した。

気付いたら、一緒に動く仲間に囲まれていた。

当たり前の事を、当たり前に伝えていく。
これが正しいことなのか、いまだに分からない。
でも、伝えるべきことがそこにある。

そして、信じることはできる。
きっと同じ想いでいる仲間が大勢いるであろうことを。



































  
タグ :大地震


Posted by goyaman at 03:01Comments(4)東日本大震災

2011年04月15日

台湾から日本へ 復興応援「ずーっとそばに居るよ」



【盧千恵のフォルモサ便り】

 台湾では、今でもよく東日本大震災関連のニュースが流れています。何回見ても、いつ見ても、涙が出ないときがないほど、悲惨な状況が画面に出てきますが、同時に、あー、なんと力強く立ち上がろうとしているのだろうと、心打たれます。

 震災直後、涙をこらえようとしながらこらえきれず、それでも最後まで答辞を述べきった気仙沼市立階上(はしかみ)中学の卒業生代表。日本人は大人だけでなく、15歳の中学生までが、「苦境にあっても、天を恨まず、運命にたえ、助け合って生きていくことが、わたし達の使命です」と述べることができたのは、世界中の人々に感動を呼び起こしたに違いありません。隣国に住む台湾の同じ年頃の学生たちは、そのような姿を見て、「日本の友とともに苦難を」と強く願い、同時に多くを学んでいます。

 ■寄せ書き・募金呼びかけ

 台中市の名所、宝覚寺の真向かいにある、新民高校日本語学科の学生が呼びかけ、書いた寄せ書きの一部です。

 -地震、津波、原子炉、予測できなかった災害が起こった今、わたしは、人類がお互いをもっと大事にし、励ましあい、支援しあうことの大切さを感じています。

 -心が痛くて、悲しくて涙がとまりません。わたし達は皆様の心を暖めますから、寒い中、決してあきらめずにがんばってください。

 -ずーっとそばに居てあげたい、心の傷が癒やされるまで。もっと大きな被害にならないように、お祈りしています。日本的未来-定会更好。

 -ニュースを見ると、心が痛みます。涙がこぼれます。同時にあなた方を尊敬してしまいます。このような天災に会いながらも、規律正しく、天を恨まず、しなくてはいけないことを整然と行っているのをみると、わたし達も見習わなくてはという気持ちが沸き起こってくるのです。

 -「日本人!」この民族は団結の代表選手です。

 -わたしも愛する人を失ったことがあるから、あなたたちの痛みが分かります。絶対にいのちを粗末にしないで生きてください。

 新民高校の赤十字社青少年奉仕グループは、学内募金で集めた50万元(150万円)、学校理事会の寄付金100万元(300万円)と一緒に、寄せ書きを赤十字社台中支部へ届けました。1時間のアルバイト料、お弁当が2つ買える100元を入れてくれた友人たちに「ありがとう」を間断なく言い続けたと、学生が話してくれました。

 大度山台地にある静宜大学では、日本人留学生の呼びかけに日本語学科が応え、ある先生のことばですが、「歩いたり、走ったりして募金を行っていました」。この居ても立ってもいられない気持ちが、大学全体を動かしたのでしょう、「祈福会」を始め、「祈福壁」が作られ、祈りのことばを書き込んでもらっていました。

 台湾キリスト教会国連加盟推進協会の羅栄光牧師は「日本の苦難を分かち合おう」と呼びかけています。1999年9月21日に起こった台湾大震災のとき、赤い制服の日本救助隊が余震の続く東勢地方の倒壊した王朝ビルから、閉じ込められていた被災者を担架で担ぎ出したのを目撃し、涙がとまらなかったと「呼びかけ文」に書いていました。そう、あの時、いち早く台湾に救援隊、救助機械、医療隊、救援金を送り込んでくれた隣国日本の真摯(しんし)な友情を思い出した人は多かったでしょう。

 ■「必ず立ち上がる」

 わたし達が前駐日代表だったということで、大勢の人から「日本は大丈夫ですか?」「発電機が200台集まりましたが、どこへ送ればよいでしょう?」などの電話がかかってきました。駐台日本交流協会の電話はパンク状態だったと聞きました。今、台湾人は手を合わせ、日本の復興を祈り、限りない連帯の思いを寄せていることをお伝えします。

 世界台湾人大会にスピーカーとしてこられた櫻井よしこ先生は、3月20日、冒頭演説を終えられた後、中、南部観光を取りやめ、「人類が経験したことのない3つの苦難に直面している日本」へもどっていきました。「日本国は必ず立派に立ち上がると確信しています。日本人は文字通りこの未曾有の試練を立派に乗り越えなければなりません。わたしはその国家再建の先頭に立つつもりです」ということばを残して。(許世楷(コー・セーカイ)・元台北駐日経済文化代表処代表の令夫人、盧千恵/SANKEI EXPRESS)

       ◇

 ■ロー・チェンフィ 1936年台中生まれ。60年国際基督教大学人文科学科卒業後、国際基督教大助手。61年許世楷氏と結婚。夫とともに台湾の独立・民主化運動にかかわったことからブラックリストに載り帰国できなかった。台湾の民主化が進んだ92年に帰国し、2004年~08年、夫の駐日代表就任に伴って再び日本に滞在。夫との共著に「台湾という新しい国」(まどか社)がある。

  
タグ :大震災


Posted by goyaman at 18:41Comments(0)東日本大震災

2011年04月12日

原発がどんなものか知ってほしい



原発がどんなものか知ってほしい(全) 平井憲夫

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筆者「平井憲夫さん」について:

1997年1月逝去。
1級プラント配管技能士、原発事故調査国民会議顧問、原発被曝労働者救済センター代表、北陸電力能登(現・志賀)原発差し止め裁判原告特別補佐人、東北電力女川原発差し止め裁判原告特別補佐人、福島第2原発3号機運転差し止め訴訟原告証人。
「原発被曝労働者救済センター」は後継者がなく、閉鎖されました。

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私は原発反対運動家ではありません。 

二十年間、原子力発電所の現場で働いていた者です。原発については賛成だとか、危険だとか、安全だとかいろんな論争がありますが、私は「原発とはこういうものですよ」と、ほとんどの人が知らない原発の中のお話をします。そして、最後まで読んでいただくと、原発がみなさんが思っていらっしゃるようなものではなく、毎日、被曝者を生み、大変な差別をつくっているものでもあることがよく分かると思います。

 はじめて聞かれる話も多いと思います。どうか、最後まで読んで、それから、原発をどうしたらいいか、みなさんで考えられたらいいと思います。原発について、設計の話をする人はたくさんいますが、私のように施工、造る話をする人がいないのです。しかし、現場を知らないと、原発の本当のことは分かりません。

 私はプラント、大きな化学製造工場などの配管が専門です。二○代の終わりごろに、日本に原発を造るというのでスカウトされて、原発に行きました。一作業負だったら、何十年いても分かりませんが、現場監督として長く働きましたから、原発の中のことはほとんど知っています。

「安全」は机上の話 

去年(一九九五年)の一月一七日に阪神大震災が起きて、国民の中から「地震で原発が壊れたりしないか」という不安の声が高くなりました。原発は地震で本当に大丈夫か、と。しかし、決して大丈夫ではありません。国や電力会社は、耐震設計を考え、固い岩盤の上に建設されているので安全だと強調していますが、これは机上の話です。

 この地震の次の日、私は神戸に行ってみて、余りにも原発との共通点の多さに、改めて考えさせられました。まさか、新幹線の線路が落下したり、高速道路が横倒しになるとは、それまで国民のだれ1人考えてもみなかったと思います。

 世間一般に、原発や新幹線、高速道路などは官庁検査によって、きびしい検査が行われていると思われています。しかし、新幹線の橋脚部のコンクリートの中には型枠の木片が入っていたし、高速道路の支柱の鉄骨の溶接は溶け込み不良でした。一見、溶接がされているように見えていても、溶接そのものがなされていなくて、溶接部が全部はずれてしまっていました。

 なぜ、このような事が起きてしまったのでしょうか。その根本は、余りにも机上の設計ばかりに重点を置いていて、現場の施工、管理を怠ったためです。それが直接の原因ではなくても、このような事故が起きてしまうのです。

素人が造る原発 

原発でも、原子炉の中に針金が入っていたり、配管の中に道具や工具を入れたまま配管をつないでしまったり、いわゆる人が間違える事故、ヒューマンエラーがあまりにも多すぎます。それは現場にブロの職人が少なく、いくら設計が立派でも、設計通りには造られていないからです。机上の設計の議論は、最高の技量を持った職人が施工することが絶対条件です。しかし、原発を造る人がどんな技量を持った人であるのか、現場がどうなっているのかという議論は1度もされたことがありません。

 原発にしろ、建設現場にしろ、作業者から検査官まで総素人によって造られているのが現実ですから、原発や新幹線、高速道路がいつ大事故を起こしても、不思議ではないのです。

 日本の原発の設計も優秀で、二重、三重に多重防護されていて、どこかで故障が起きるとちゃんと止まるようになっています。しかし、これは設計の段階までです。施工、造る段階でおかしくなってしまっているのです。

 仮に、自分の家を建てる時に、立派な一級建築士に設計をしてもらっても、大工や左官屋の腕が悪かったら、雨漏りはする、建具は合わなくなったりしますが、残念ながら、これが日本の原発なのです。

 ひとむかし前までは、現場作業には、棒心(ぼうしん)と呼ばれる職人、現場の若い監督以上の経験を積んだ職人が班長として必ずいました。職人は自分の仕事にプライドを持っていて、事故や手抜きは恥だと考えていましたし、事故の恐ろしさもよく知っていました。それが十年くらい前から、現場に職人がいなくなりました。全くの素人を経験不問という形で募集しています。素人の人は事故の怖さを知らない、なにが不正工事やら手抜きかも、全く知らないで作業しています。それが今の原発の実情です。

 例えば、東京電力の福島原発では、針金を原子炉の中に落としたまま運転していて、1歩間違えば、世界中を巻き込むような大事故になっていたところでした。本人は針金を落としたことは知っていたのに、それがどれだけの大事故につながるかの認識は全然なかったのです。そういう意味では老朽化した原発も危ないのですが、新しい原発も素人が造るという意味で危ないのは同じです。

 現場に職人が少なくなってから、素人でも造れるように、工事がマニュアル化されるようになりました。マニュアル化というのは図面を見て作るのではなく、工場である程度組み立てた物を持ってきて、現場で1番と1番、2番と2番というように、ただ積木を積み重ねるようにして合わせていくんです。そうすると、今、自分が何をしているのか、どれほど重要なことをしているのか、全く分からないままに造っていくことになるのです。こういうことも、事故や故障がひんぱんに起こるようになった原因のひとつです。

 また、原発には放射能の被曝の問題があって後継者を育てることが出来ない職場なのです。原発の作業現場は暗くて暑いし、防護マスクも付けていて、互いに話をすることも出来ないような所ですから、身振り手振りなんです。これではちゃんとした技術を教えることができません。それに、いわゆる腕のいい人ほど、年問の許容線量を先に使ってしまって、中に入れなくなります。だから、よけいに素人でもいいということになってしまうんです。

 また、例えば、溶接の職人ですと、目がやられます。30歳すぎたらもうだめで、細かい仕事が出来なくなります。そうすると、細かい仕事が多い石油プラントなどでは使いものになりませんから、だったら、まあ、日当が安くても、原発の方にでも行こうかなあということになります。

 皆さんは何か勘違いしていて、原発というのはとても技術的に高度なものだと思い込んでいるかも知れないけれど、そんな高級なものではないのです。

 ですから、素人が造る原発ということで、原発はこれから先、本当にどうしようもなくなってきます。

名ばかりの検査・検査官 

原発を造る職人がいなくなっても、検査をきっちりやればいいという人がいます。しかし、その検査体制が問題なのです。出来上がったものを見るのが日本の検査ですから、それではダメなのです。検査は施工の過程を見ることが重要なのです。

 検査官が溶接なら溶接を、「そうではない。よく見ていなさい。このようにするんだ」と自分でやって見せる技量がないと本当の検査にはなりません。そういう技量の無い検査官にまともな検査が出来るわけがないのです。メーカーや施主の説明を聞き、書類さえ整っていれば合格とする、これが今の官庁検査の実態です。

 原発の事故があまりにもひんぱんに起き出したころに、運転管理専門官を各原発に置くことが閣議で決まりました。原発の新設や定検(定期検査)のあとの運転の許可を出す役人です。私もその役人が素人だとは知っていましたが、ここまでひどいとは知らなかったです。

 というのは、水戸で講演をしていた時、会場から「実は恥ずかしいんですが、まるっきり素人です」と、科技庁(科学技術庁)の者だとはっきり名乗って発言した人がいました。その人は「自分たちの職場の職員は、被曝するから絶対に現場に出さなかった。折から行政改革で農水省の役人が余っているというので、昨日まで養蚕の指導をしていた人やハマチ養殖の指導をしていた人を、次の日には専門検査官として赴任させた。そういう何にも知らない人が原発の専門検査官として運転許可を出した。美浜原発にいた専門官は三か月前までは、お米の検査をしていた人だった」と、その人たちの実名を挙げて話してくれました。このようにまったくの素人が出す原発の運転許可を信用できますか。

 東京電力の福島原発で、緊急炉心冷却装置(ECCS)が作動した大事故が起きたとき、読売新聞が「現地専門官カヤの外」と報道していましたが、その人は、自分の担当している原発で大事故が起きたことを、次の日の新聞で知ったのです。なぜ、専門官が何も知らなかったのか。それは、電力会社の人は専門官がまったくの素人であることを知っていますから、火事場のような騒ぎの中で、子どもに教えるように、いちいち説明する時間がなかったので、その人を現場にも入れないで放って置いたのです。だから何も知らなかったのです。

 そんないい加減な人の下に原子力検査協会の人がいます。この人がどんな人かというと、この協会は通産省を定年退職した人の天下り先ですから、全然畑違いの人です。この人が原発の工事のあらゆる検査の権限を持っていて、この人の0Kが出ないと仕事が進まないのですが、検査のことはなにも知りません。ですから、検査と言ってもただ見に行くだけです。けれども大変な権限を持っています。この協会の下に電力会社があり、その下に原子炉メーカーの日立・東芝・三菱の三社があります。私は日立にいましたが、このメーカーの下に工事会社があるんです。つまり、メーカーから上も素人、その下の工事会社もほとんど素人ということになります。だから、原発の事故のことも電力会社ではなく、メー力-でないと、詳しいことは分からないのです。

 私は現役のころも、辞めてからも、ずっと言っていますが、天下りや特殊法人ではなく、本当の第三者的な機関、通産省は原発を推進しているところですから、そういう所と全く関係のない機関を作って、その機関が検査をする。そして、検査官は配管のことなど経験を積んだ人、現場のたたき上げの職人が検査と指導を行えば、溶接の不具合や手抜き工事も見抜けるからと、一生懸命に言ってきましたが、いまだに何も変わっていません。このように、日本の原発行政は、余りにも無責任でお粗末なものなんです。

いいかげんな原発の耐震設計 

阪神大震災後に、慌ただしく日本中の原発の耐震設計を見直して、その結果を九月に発表しましたが、「どの原発も、どんな地震が起きても大丈夫」というあきれたものでした。私が関わった限り、初めのころの原発では、地震のことなど真面目に考えていなかったのです。それを新しいのも古いのも一緒くたにして、大丈夫だなんて、とんでもないことです。1993年に、女川原発の一号機が震度4くらいの地震で出力が急上昇して、自動停止したことがありましたが、この事故は大変な事故でした。なぜ大変だったかというと、この原発では、1984年に震度5で止まるような工事をしているのですが、それが震度5ではないのに止まったんです。わかりやすく言うと、高速道路を運転中、ブレーキを踏まないのに、突然、急ブレーキがかかって止まったと同じことなんです。これは、東北電力が言うように、止まったからよかった、というような簡単なことではありません。5で止まるように設計されているものが4で止まったということは、5では止まらない可能性もあるということなんです。つまり、いろんなことが設計通りにいかないということの現れなんです。

 こういう地震で異常な止まり方をした原発は、1987年に福島原発でも起きていますが、同じ型の原発が全国で10もあります。これは地震と原発のことを考えるとき、非常に恐ろしいことではないでしょうか。

定期点検工事も素人が 

原発は1年くらい運転すると、必ず止めて検査をすることになっていて、定期検査、定検といっています。原子炉には70気圧とか、150気圧とかいうものすごい圧力がかけられていて、配管の中には水が、水といっても300℃もある熱湯ですが、水や水蒸気がすごい勢いで通っていますから、配管の厚さが半分くらいに薄くなってしまう所もあるのです。そういう配管とかバルブとかを、定検でどうしても取り替えなくてはならないのですが、この作業に必ず被曝が伴うわけです。

 原発は一回動かすと、中は放射能、放射線でいっぱいになりますから、その中で人間が放射線を浴びながら働いているのです。そういう現場へ行くのには、自分の服を全部脱いで、防護服に着替えて入ります。防護服というと、放射能から体を守る服のように聞こえますが、そうではないんですよ。放射線の量を計るアラームメーターは防護服の中のチョッキに付けているんですから。つまり、防護服は放射能を外に持ち出さないための単なる作業着です。作業している人を放射能から守るものではないのです。だから、作業が終わって外に出る時には、パンツー枚になって、被曝していないかどうか検査をするんです。体の表面に放射能がついている、いわゆる外部被曝ですと、シャワーで洗うと大体流せますから、放射能がゼロになるまで徹底的に洗ってから、やっと出られます。

 また、安全靴といって、備付けの靴に履き替えますが、この靴もサイズが自分の足にきちっと合うものはありませんから、大事な働く足元がちゃんと定まりません。それに放射能を吸わないように全面マスクを付けたりします。そういうかっこうで現場に入り、放射能の心配をしながら働くわけですから、実際、原発の中ではいい仕事は絶対に出来ません。普通の職場とはまったく違うのです。

 そういう仕事をする人が95%以上まるっきりの素人です。お百姓や漁師の人が自分の仕事が暇な冬場などにやります。言葉は悪いのですが、いわゆる出稼ぎの人です。そういう経験のない人が、怖さを全く知らないで作業をするわけです。

 例えば、ボルトをネジで締める作業をするとき、「対角線に締めなさい、締めないと漏れるよ」と教えますが、作業する現場は放射線管理区域ですから、放射能がいっぱいあって最悪な所です。作業現場に入る時はアラームメーターをつけて入りますが、現場は場所によって放射線の量が違いますから、作業の出来る時間が違います。分刻みです。

 現場に入る前にその日の作業と時間、時間というのは、その日に浴びてよい放射能の量で時間が決まるわけですが、その現場が20分間作業ができる所だとすると、20分経つとアラ-ムメーターが鳴るようにしてある。だから、「アラームメーターが鳴ったら現場から出なさいよ」と指示します。でも現場には時計がありません。時計を持って入ると、時計が放射能で汚染されますから腹時計です。そうやって、現場に行きます。

 そこでは、ボルトをネジで締めながら、もう10分は過ぎたかな、15分は過ぎたかなと、頭はそっちの方にばかり行きます。アラームメーターが鳴るのが怖いですから。アラームメーターというのはビーッととんでもない音がしますので、初めての人はその音が鳴ると、顔から血の気が引くくらい怖いものです。これは経験した者でないと分かりません。ビーッと鳴ると、レントゲンなら何十枚もいっぺんに写したくらいの放射線の量に当たります。ですからネジを対角線に締めなさいと言っても、言われた通りには出来なくて、ただ締めればいいと、どうしてもいい加滅になってしまうのです。すると、どうなりますか。

放射能垂れ流しの海 

冬に定検工事をすることが多いのですが、定検が終わると、海に放射能を含んだ水が何十トンも流れてしまうのです。はっきり言って、今、日本列島で取れる魚で、安心して食べられる魚はほとんどありません。日本の海が放射能で汚染されてしまっているのです。

 海に放射能で汚れた水をたれ流すのは、定検の時だけではありません。原発はすごい熱を出すので、日本では海水で冷やして、その水を海に捨てていますが、これが放射能を含んだ温排水で、一分間に何十トンにもなります。

 原発の事故があっても、県などがあわてて安全宣言を出しますし、電力会社はそれ以上に隠そうとします。それに、国民もほとんど無関心ですから、日本の海は汚れっぱなしです。

 防護服には放射性物質がいっぱいついていますから、それを最初は水洗いして、全部海に流しています。排水口で放射線の量を計ると、すごい量です。こういう所で魚の養殖をしています。安全な食べ物を求めている人たちは、こういうことも知って、原発にもっと関心をもって欲しいものです。このままでは、放射能に汚染されていないものを選べなくなると思いますよ。

 数年前の石川県の志賀原発の差止め裁判の報告会で、八十歳近い行商をしているおばあさんが、こんな話をしました。「私はいままで原発のことを知らなかった。今日、昆布とわかめをお得意さんに持っていったら、そこの若奥さんに「悪いけどもう買えないよ、今日で終わりね、志賀原発が運転に入ったから」って言われた。原発のことは何も分からないけど、初めて実感として原発のことが分かった。どうしたらいいのか」って途方にくれていました。みなさんの知らないところで、日本の海が放射能で汚染され続けています。

内部被爆が一番怖い 

原発の建屋の中は、全部の物が放射性物質に変わってきます。物がすべて放射性物質になって、放射線を出すようになるのです。どんなに厚い鉄でも放射線が突き抜けるからです。体の外から浴びる外部被曝も怖いですが、一番怖いのは内部被曝です。

 ホコリ、どこにでもあるチリとかホコリ。原発の中ではこのホコリが放射能をあびて放射性物質となって飛んでいます。この放射能をおびたホコリが口や鼻から入ると、それが内部被曝になります。原発の作業では片付けや掃除で一番内部被曝をしますが、この体の中から放射線を浴びる内部被曝の方が外部被曝よりもずっと危険なのです。体の中から直接放射線を浴びるわけですから。

 体の中に入った放射能は、通常は、三日くらいで汗や小便と一緒に出てしまいますが、三日なら三日、放射能を体の中に置いたままになります。また、体から出るといっても、人間が勝手に決めた基準ですから、決してゼロにはなりません。これが非常に怖いのです。どんなに微量でも、体の中に蓄積されていきますから。

 原発を見学した人なら分かると思いますが、一般の人が見学できるところは、とてもきれいにしてあって、職員も「きれいでしょう」と自慢そうに言っていますが、それは当たり前なのです。きれいにしておかないと放射能のホコリが飛んで危険ですから。

 私はその内部被曝を百回以上もして、癌になってしまいました。癌の宣告を受けたとき、本当に死ぬのが怖くて怖くてどうしようかと考えました。でも、私の母が何時も言っていたのですが、「死ぬより大きいことはないよ」と。じゃ死ぬ前になにかやろうと。原発のことで、私が知っていることをすべて明るみに出そうと思ったのです。

普通の職場環境とは全く違う 

放射能というのは蓄積します。いくら徴量でも十年なら十年分が蓄積します。これが怖いのです。日本の放射線管理というのは、年間50ミリシーベルトを守ればいい、それを越えなければいいという姿勢です。

 例えば、定検工事ですと三ケ月くらいかかりますから、それで割ると一日分が出ます。でも、放射線量が高いところですと、一日に五分から七分間しか作業が出来ないところもあります。しかし、それでは全く仕事になりませんから、三日分とか、一週間分をいっぺんに浴びせながら作業をさせるのです。これは絶対にやってはいけない方法ですが、そうやって10分間なり20分間なりの作業ができるのです。そんなことをすると白血病とかガンになると知ってくれていると、まだいいのですが……。電力会社はこういうことを一切教えません。

 稼動中の原発で、機械に付いている大きなネジが一本緩んだことがありました。動いている原発は放射能の量が物凄いですから、その一本のネジを締めるのに働く人三十人を用意しました。一列に並んで、ヨーイドンで七メートルくらい先にあるネジまで走って行きます。行って、一、二、三と数えるくらいで、もうアラームメーターがビーッと鳴る。中には走って行って、ネジを締めるスパナはどこにあるんだ?といったら、もう終わりの人もいる。ネジをたった一山、二山、三山締めるだけで百六十人分、金額で四百万円くらいかかりました。

 なぜ、原発を止めて修理しないのかと疑問に思われるかもしれませんが、原発を一日止めると、何億円もの損になりますから、電力会社は出来るだけ止めないのです。放射能というのは非常に危険なものですが、企業というものは、人の命よりもお金なのです。

絶対安全」だと五時間の洗脳教育 

原発など、放射能のある職場で働く人を放射線従事者といいます。日本の放射線従事者は今までに約二七万人ですが、そのほとんどが原発作業者です。今も九万人くらいの人が原発で働いています。その人たちが年一回行われる原発の定検工事などを、毎日、毎日、被曝しながら支えているのです。

 原発で初めて働く作業者に対し、放射線管理教育を約五時間かけて行います。この教育の最大の目的は、不安の解消のためです。原発が危険だとは一切教えません。国の被曝線量で管理しているので、絶対大丈夫なので安心して働きなさい、世間で原発反対の人たちが、放射能でガンや白血病に冒されると言っているが、あれは“マッカナ、オオウソ”である、国が決めたことを守っていれば絶対に大丈夫だと、五時間かけて洗脳します。  

 こういう「原発安全」の洗脳を、電力会社は地域の人にも行っています。有名人を呼んで講演会を開いたり、文化サークルで料理教室をしたり、カラー印刷の立派なチラシを新聞折り込みしたりして。だから、事故があって、ちょっと不安に思ったとしても、そういう安全宣伝にすぐに洗脳されてしまって、「原発がなくなったら、電気がなくなって困る」と思い込むようになるのです。

 私自身が二〇年近く、現場の責任者として、働く人にオウムの麻原以上のマインド・コントロール、「洗脳教育」をやって来ました。何人殺したかわかりません。みなさんから現場で働く人は不安に思っていないのかとよく聞かれますが、放射能の危険や被曝のことは一切知らされていませんから、不安だとは大半の人は思っていません。体の具合が悪くなっても、それが原発のせいだとは全然考えもしないのです。作業者全員が毎日被曝をする。それをいかに本人や外部に知られないように処理するかが責任者の仕事です。本人や外部に被曝の問題が漏れるようでは、現場責任者は失格なのです。これが原発の現場です。

 私はこのような仕事を長くやっていて、毎日がいたたまれない日も多く、夜は酒の力をかり、酒量が日毎に増していきました。そうした自分自身に、問いかけることも多くなっていました。一体なんのために、誰のために、このようなウソの毎日を過ごさねばならないのかと。気がついたら、二〇年の原発労働で、私の体も被曝でぼろぼろになっていました。

だれが助けるのか 

また、東京電力の福島原発で現場作業員がグラインダーで額(ひたい)を切って、大怪我をしたことがありました。血が吹き出ていて、一刻を争う大怪我でしたから、直ぐに救急車を呼んで運び出しました。ところが、その怪我人は放射能まみれだったのです。でも、電力会社もあわてていたので、防護服を脱がせたり、体を洗ったりする除洗をしなかった。救急隊員にも放射能汚染の知識が全くなかったので、その怪我人は放射能の除洗をしないままに、病院に運ばれてしまったんです。だから、その怪我人を触った救急隊員が汚染される、救急車も汚染される、医者も看護婦さんも、その看護婦さんが触った他の患者さんも汚染される、その患者さんが外へ出て、また汚染が広がるというふうに、町中がパニックになるほどの大変な事態になってしまいました。みんなが大怪我をして出血のひどい人を何とか助けたいと思って必死だっただけで、放射能は全く見えませんから、その人が放射能で汚染されていることなんか、だれも気が付かなかったんですよ。

 一人でもこんなに大変なんです。それが仮に大事故が起きて大勢の住民が放射能で汚染された時、一体どうなるのでしょうか。想像できますか。人ごとではないのです。この国の人、みんなの問題です。

びっくりした美浜原発細管破断事故! 

皆さんが知らないのか、無関心なのか、日本の原発はびっくりするような大事故を度々起こしています。スリーマイル島とかチェルノブイリに匹敵する大事故です。一九八九年に、東京電力の福島第二原発で再循環ポンプがバラバラになった大事故も、世界で初めての事故でした。

 そして、一九九一年二月に、関西電力の美浜原発で細管が破断した事故は、放射能を直接に大気中や海へ大量に放出した大事故でした。

 チェルノブイリの事故の時には、私はあまり驚かなかったんですよ。原発を造っていて、そういう事故が必ず起こると分かっていましたから。だから、ああ、たまたまチェルノブイリで起きたと、たまたま日本ではなかったと思ったんです。しかし、美浜の事故の時はもうびっくりして、足がガクガクふるえて椅子から立ち上がれない程でした。

 この事故はECCS(緊急炉心冷却装置)を手動で動かして原発を止めたという意味で、重大な事故だったんです。ECCSというのは、原発の安全を守るための最後の砦に当たります。これが効かなかったらお終りです。だから、ECCSを動かした美浜の事故というのは、一億数千万人の人を乗せたバスが高速道路を一〇〇キロのスピードで走っているのに、ブレーキもきかない、サイドブレーキもきかない、崖にぶつけてやっと止めたというような大事故だったんです。

 原子炉の中の放射能を含んだ水が海へ流れ出て、炉が空焚きになる寸前だったのです。日本が誇る多重防護の安全弁が次々と効かなくて、あと〇・七秒でチェルノブイリになるところだった。それも、土曜日だったのですが、たまたまベテランの職員が来ていて、自動停止するはずが停止しなくて、その人がとっさの判断で手動で止めて、世界を巻き込むような大事故に至らなかったのです。日本中の人が、いや世界中の人が本当に運がよかったのですよ。

 この事故は、二ミリくらいの細い配管についている触れ止め金具、何千本もある細管が振動で触れ合わないようにしてある金具が設計通りに入っていなかったのが原因でした。施工ミスです。そのことが二十年近い何回もの定検でも見つからなかったんですから、定検のいい加減さがばれた事故でもあった。入らなければ切って捨てる、合わなければ引っ張るという、設計者がまさかと思うようなことが、現場では当たり前に行われているということが分かった事故でもあったんです。

もんじゅの大事故 

去年(一九九五年)の十二月八日に、福井県の敦賀にある動燃(動力炉・核燃料開発事業団)のもんじゅでナトリウム漏れの大事故を起こしました。もんじゅの事故はこれが初めてではなく、それまでにも度々事故を起こしていて、私は建設中に六回も呼ばれて行きました。というのは、所長とか監督とか職人とか、元の部下だった人たちがもんじゅの担当もしているので、何か困ったことがあると私を呼ぶんですね。もう会社を辞めていましたが、原発だけは事故が起きたら取り返しがつきませんから、放っては置けないので行くのです。

 ある時、電話がかかって、「配管がどうしても合わないから来てくれ」という。行って見ますと、特別に作った配管も既製品の配管もすべて図面どおり、寸法通りになっている。でも、合わない。どうして合わないのか、いろいろ考えましたが、なかなか分からなかった。一晩考えてようやく分かりました。もんじゅは、日立、東芝、三菱、富士電機などの寄せ集めのメーカーで造ったもので、それぞれの会社の設計基準が違っていたのです。

 図面を引くときに、私が居た日立は〇・五mm切り捨て、東芝と三菱は〇・五mm切上げ、日本原研は〇・五mm切下げなんです。たった〇・五mmですが、百カ所も集まると大変な違いになるのです。だから、数字も線も合っているのに合わなかったのですね。

 これではダメだということで、みんな作り直させました。何しろ国の威信がかかっていますから、お金は掛けるんです。

 どうしてそういうことになるかというと、それぞれのノウ・ハウ、企業秘密ということがあって、全体で話し合いをして、この〇・五mmについて、切り上げるか、切り下げるか、どちらかに統一しようというような話し合いをしていなかったのです。今回のもんじゅの事故の原因となった温度センサーにしても、メーカー同士での話し合いもされていなかったんではないでしょうか。

 どんなプラントの配管にも、あのような温度計がついていますが、私はあんなに長いのは見たことがありません。おそらく施工した時に危ないと分かっていた人がいたはずなんですね。でも、よその会社のことだからほっとけばいい、自分の会社の責任ではないと。

 動燃自体が電力会社からの出向で出来た寄せ集めですが、メーカーも寄せ集めなんです。これでは事故は起こるべくして起こる、事故が起きないほうが不思議なんで、起こって当たり前なんです。

 しかし、こんな重大事故でも、国は「事故」と言いません。美浜原発の大事故の時と同じように「事象があった」と言っていました。私は事故の後、直ぐに福井県の議会から呼ばれて行きました。あそこには十五基も原発がありますが、誘致したのは自民党の議員さんなんですね。だから、私はそういう人に何時も、「事故が起きたらあなた方のせいだよ、反対していた人には責任はないよ」と言ってきました。この度、その議員さんたちに呼ばれたのです。「今回は腹を据えて動燃とケンカする、どうしたらよいか教えてほしい」と相談を受けたのです。

 それで、私がまず最初に言ったことは、「これは事故なんです、事故。事象というような言葉に誤魔化されちゃあだめだよ」と言いました。県議会で動燃が「今回の事象は……」と説明を始めたら、「事故だろ! 事故!」と議員が叫んでいたのが、テレビで写っていましたが、あれも、黙っていたら、軽い「事象」ということにされていたんです。地元の人たちだけではなく、私たちも、向こうの言う「事象」というような軽い言葉に誤魔化されてはいけないんです。

 普通の人にとって、「事故」というのと「事象」というのとでは、とらえ方がまったく違います。この国が事故を事象などと言い換えるような姑息なことをしているので、日本人には原発の事故の危機感がほとんどないのです。

日本のプルトニウムがフランスの核兵器に? 

もんじゅに使われているプルトニウムは、日本がフランスに再処理を依頼して抽出したものです。再処理というのは、原発で燃やしてしまったウラン燃料の中に出来たプルトニウムを取り出すことですが、プルトニウムはそういうふうに人工的にしか作れないものです。

 そのプルトニウムがもんじゅには約一・四トンも使われています。長崎の原爆は約八キロだったそうですが、一体、もんじゅのプルトニウムでどのくらいの原爆ができますか。それに、どんなに微量でも肺ガンを起こす猛毒物質です。半減期が二万四千年もあるので、永久に放射能を出し続けます。だから、その名前がプルートー、地獄の王という名前からつけられたように、プルトニウムはこの世で一番危険なものといわれるわけですよ。

 しかし、日本のプルトニウムが去年(一九九五年)南太平洋でフランスが行った核実験に使われた可能性が大きいことを知っている人は、余りいません。フランスの再処理工場では、プルトニウムを作るのに核兵器用も原発用も区別がないのです。だから、日本のプルトニウムが、この時の核実験に使われてしまったことはほとんど間違いありません。

 日本がこの核実験に反対をきっちり言えなかったのには、そういう理由があるからです。もし、日本政府が本気でフランスの核実験を止めさせたかったら、簡単だったのです。つまり、再処理の契約を止めればよかったんです。でも、それをしなかった。

 日本とフランスの貿易額で二番目に多いのは、この再処理のお金なんですよ。国民はそんなことも知らないで、いくら「核実験に反対、反対」といっても仕方がないんじゃないでしょうか。それに、唯一の被爆国といいながら、日本のプルトニウムがタヒチの人々を被爆させ、きれいな海を放射能で汚してしまったに違いありません。

 世界中が諦めたのに、日本だけはまだこんなもので電気を作ろうとしているんです。普通の原発で、ウランとプルトニウムを混ぜた燃料(MOX燃料)を燃やす、いわゆるプルサーマルをやろうとしています。しかし、これは非常に危険です。分かりやすくいうと、石油ストーブでガソリンを燃やすようなことなんです。原発の元々の設計がプルトニウムを燃すようになっていません。プルトニウムは核分裂の力がウランとはケタ違いに大きいんです。だから原爆の材料にしているわけですから。

 いくら資源がない国だからといっても、あまりに酷すぎるんじゃないでしょうか。早く原発を止めて、プルトニウムを使うなんてことも止めなければ、あちこちで被曝者が増えていくばかりです。

日本には途中でやめる勇気がない 

世界では原発の時代は終わりです。原発の先進国のアメリカでは、二月(一九九六年)に二〇一五年までに原発を半分にすると発表しました。それに、プルトニウムの研究も大統領命令で止めています。あんなに怖い物、研究さえ止めました。

 もんじゅのようにプルトニウムを使う原発、高速増殖炉も、アメリカはもちろんイギリスもドイツも止めました。ドイツは出来上がったのを止めて、リゾートパークにしてしまいました。世界の国がプルトニウムで発電するのは不可能だと分かって止めたんです。日本政府も今度のもんじゅの事故で「失敗した」と思っているでしょう。でも、まだ止めない。これからもやると言っています。

 どうして日本が止めないかというと、日本にはいったん決めたことを途中で止める勇気がないからで、この国が途中で止める勇気がないというのは非常に怖いです。みなさんもそんな例は山ほどご存じでしょう。

 とにかく日本の原子力政策はいい加減なのです。日本は原発を始める時から、後のことは何にも考えていなかった。その内に何とかなるだろうと。そんないい加減なことでやってきたんです。そうやって何十年もたった。でも、廃棄物一つのことさえ、どうにもできないんです。

 もう一つ、大変なことは、いままでは大学に原子力工学科があって、それなりに学生がいましたが、今は若い人たちが原子力から離れてしまい、東大をはじめほとんどの大学からなくなってしまいました。机の上で研究する大学生さえいなくなったのです。

 また、日立と東芝にある原子力部門の人も三分の一に減って、コ・ジェネレーション(電気とお湯を同時に作る効率のよい発電設備)のガス・タービンの方へ行きました。メーカーでさえ、原子力はもう終わりだと思っているのです。

 原子力局長をやっていた島村武久さんという人が退官して、『原子力談義』という本で、「日本政府がやっているのは、ただのつじつま合わせに過ぎない、電気が足りないのでも何でもない。あまりに無計画にウランとかプルトニウムを持ちすぎてしまったことが原因です。はっきりノーといわないから持たされてしまったのです。そして日本はそれらで核兵器を作るんじゃないかと世界の国々から見られる、その疑惑を否定するために核の平和利用、つまり、原発をもっともっと造ろうということになるのです」と書いていますが、これもこの国の姿なんです。

廃炉も解体も出来ない原発 

一九六六年に、日本で初めてイギリスから輸入した十六万キロワットの営業用原子炉が茨城県の東海村で稼動しました。その後はアメリカから輸入した原発で、途中で自前で造るようになりましたが、今では、この狭い日本に一三五万キロワットというような巨大な原発を含めて五一の原発が運転されています。

 具体的な廃炉・解体や廃棄物のことなど考えないままに動かし始めた原発ですが、厚い鉄でできた原子炉も大量の放射能をあびるとボロボロになるんです。だから、最初、耐用年数は十年だと言っていて、十年で廃炉、解体する予定でいました。しかし、一九八一年に十年たった東京電力の福島原発の一号機で、当初考えていたような廃炉・解体が全然出来ないことが分かりました。このことは国会でも原子炉は核反応に耐えられないと、問題になりました。

 この時、私も加わってこの原子炉の廃炉、解体についてどうするか、毎日のように、ああでもない、こうでもないと検討をしたのですが、放射能だらけの原発を無理やりに廃炉、解体しようとしても、造るときの何倍ものお金がかかることや、どうしても大量の被曝が避けられないことなど、どうしようもないことが分かったのです。原子炉のすぐ下の方では、決められた線量を守ろうとすると、たった十数秒くらいしかいられないんですから。

 机の上では、何でもできますが、実際には人の手でやらなければならないのですから、とんでもない被曝を伴うわけです。ですから、放射能がゼロにならないと、何にもできないのです。放射能がある限り廃炉、解体は不可能なのです。人間にできなければロボットでという人もいます。でも、研究はしていますが、ロボットが放射能で狂ってしまって使えないのです。

 結局、福島の原発では、廃炉にすることができないというので、原発を売り込んだアメリカのメーカーが自分の国から作業者を送り込み、日本では到底考えられない程の大量の被曝をさせて、原子炉の修理をしたのです。今でもその原発は動いています。

 最初に耐用年数が十年といわれていた原発が、もう三〇年近く動いています。そんな原発が十一もある。くたびれてヨタヨタになっても動かし続けていて、私は心配でたまりません。

 また、神奈川県の川崎にある武蔵工大の原子炉はたった一〇〇キロワットの研究炉ですが、これも放射能漏れを起こして止まっています。机上の計算では、修理に二〇億円、廃炉にするには六〇億円もかかるそうですが、大学の年間予算に相当するお金をかけても廃炉にはできないのです。まず停止して放射能がなくなるまで管理するしかないのです。

 それが一〇〇万キロワットというような大きな原発ですと、本当にどうしようもありません。

「閉鎖」して、監視・管理 

なぜ、原発は廃炉や解体ができないのでしょうか。それは、原発は水と蒸気で運転されているものなので、運転を止めてそのままに放置しておくと、すぐサビが来てボロボロになって、穴が開いて放射能が漏れてくるからです。原発は核燃料を入れて一回でも運転すると、放射能だらけになって、止めたままにしておくことも、廃炉、解体することもできないものになってしまうのです。

 先進各国で、閉鎖した原発は数多くあります。廃炉、解体ができないので、みんな「閉鎖」なんです。閉鎖とは発電を止めて、核燃料を取り出しておくことですが、ここからが大変です。

 放射能まみれになってしまった原発は、発電している時と同じように、水を入れて動かし続けなければなりません。水の圧力で配管が薄くなったり、部品の具合が悪くなったりしますから、定検もしてそういう所の補修をし、放射能が外に漏れださないようにしなければなりません。放射能が無くなるまで、発電しているときと同じように監視し、管理をし続けなければならないのです。 

 今、運転中が五一、建設中が三、全部で五四の原発が日本列島を取り巻いています。これ以上運転を続けると、余りにも危険な原発もいくつかあります。この他に大学や会社の研究用の原子炉もありますから、日本には今、小さいのは一〇〇キロワット、大きいのは一三五万キロワット、大小合わせて七六もの原子炉があることになります。

 しかし、日本の電力会社が、電気を作らない、金儲けにならない閉鎖した原発を本気で監視し続けるか大変疑問です。それなのに、さらに、新規立地や増設を行おうとしています。その中には、東海地震のことで心配な浜岡に五機目の増設をしようとしていたり、福島ではサッカー場と引換えにした増設もあります。新設では新潟の巻町や三重の芦浜、山口の上関、石川の珠洲、青森の大間や東通などいくつもあります。それで、二〇一〇年には七〇~八〇基にしようと。実際、言葉は悪いですが、この国は狂っているとしか思えません。

 これから先、必ずやってくる原発の閉鎖、これは本当に大変深刻な問題です。近い将来、閉鎖された原発が日本国中いたるところに出現する。これは不安というより、不気味です。ゾーとするのは、私だけでしょうか。

どうしようもない放射性廃棄物 

それから、原発を運転すると必ず出る核のゴミ、毎日、出ています。低レベル放射性廃棄物、名前は低レベルですが、中にはこのドラム缶の側に五時間もいたら、致死量の被曝をするようなものもあります。そんなものが全国の原発で約八〇万本以上溜まっています。

 日本が原発を始めてから一九六九年までは、どこの原発でも核のゴミはドラム缶に詰めて、近くの海に捨てていました。その頃はそれが当たり前だったのです。私が茨城県の東海原発にいた時、業者はドラム缶をトラックで運んでから、船に乗せて、千葉の沖に捨てに行っていました。

 しかし、私が原発はちょっとおかしいぞと思ったのは、このことからでした。海に捨てたドラム缶は一年も経つと腐ってしまうのに、中の放射性のゴミはどうなるのだろうか、魚はどうなるのだろうかと思ったのがはじめでした。

 現在は原発のゴミは、青森の六ケ所村へ持って行っています。全部で三百万本のドラム缶をこれから三百年間管理すると言っていますが、一体、三百年ももつドラム缶があるのか、廃棄物業者が三百年間も続くのかどうか。どうなりますか。

 もう一つの高レベル廃棄物、これは使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを取り出した後に残った放射性廃棄物です。日本はイギリスとフランスの会社に再処理を頼んでいます。去年(一九九五年)フランスから、二八本の高レベル廃棄物として返ってきました。これはどろどろの高レベル廃棄物をガラスと一緒に固めて、金属容器に入れたものです。この容器の側に二分間いると死んでしまうほどの放射線を出すそうですが、これを一時的に青森県の六ケ所村に置いて、三〇年から五〇年間くらい冷やし続け、その後、どこか他の場所に持って行って、地中深く埋める予定だといっていますが、予定地は全く決まっていません。余所の国でも計画だけはあっても、実際にこの高レベル廃棄物を処分した国はありません。みんな困っています。

 原発自体についても、国は止めてから五年か十年間、密閉管理してから、粉々にくだいてドラム缶に入れて、原発の敷地内に埋めるなどとのんきなことを言っていますが、それでも一基で数万トンくらいの放射能まみれの廃材が出るんですよ。生活のゴミでさえ、捨てる所がないのに、一体どうしようというんでしょうか。とにかく日本中が核のゴミだらけになる事は目に見えています。早くなんとかしないといけないんじゃないでしょうか。それには一日も早く、原発を止めるしかなんですよ。

 私が五年程前に、北海道で話をしていた時、「放射能のゴミを五〇年、三百年監視続ける」と言ったら、中学生の女の子が、手を挙げて、「お聞きしていいですか。今、廃棄物を五〇年、三百年監視するといいましたが、今の大人がするんですか? そうじゃないでしょう。次の私たちの世代、また、その次の世代がするんじゃないんですか。だけど、私たちはいやだ」と叫ぶように言いました。この子に返事の出来る大人はいますか。

 それに、五〇年とか三百年とかいうと、それだけ経てばいいんだというふうに聞こえますが、そうじゃありません。原発が動いている限り、終わりのない永遠の五〇年であり、三百年だということです。

住民の被曝と恐ろしい差別 

日本の原発は今までは放射能を一切出していませんと、何十年もウソをついてきた。でもそういうウソがつけなくなったのです。

 原発にある高い排気塔からは、放射能が出ています。出ているんではなくて、出しているんですが、二四時間放射能を出していますから、その周辺に住んでいる人たちは、一日中、放射能をあびて被曝しているのです。

ある女性から手紙が来ました。二三歳です。便箋に涙の跡がにじんでいました。「東京で就職して恋愛し、結婚が決まって、結納も交わしました。ところが突然相手から婚約を解消されてしまったのです。相手の人は、君には何にも悪い所はない、自分も一緒になりたいと思っている。でも、親たちから、あなたが福井県の敦賀で十数年間育っている。原発の周辺では白血病の子どもが生まれる確率が高いという。白血病の孫の顔はふびんで見たくない。だから結婚するのはやめてくれ、といわれたからと。私が何か悪いことしましたか」と書いてありました。この娘さんに何の罪がありますか。こういう話が方々で起きています。

 この話は原発現地の話ではない、東京で起きた話なんですよ、東京で。皆さんは、原発で働いていた男性と自分の娘とか、この女性のように、原発の近くで育った娘さんと自分の息子とかの結婚を心から喜べますか。若い人も、そういう人と恋愛するかも知れないですから、まったく人ごとではないんです。 こういう差別の話は、言えば差別になる。でも言わなければ分からないことなんです。原発に反対している人も、原発は事故や故障が怖いだけではない、こういうことが起きるから原発はいやなんだと言って欲しいと思います。原発は事故だけではなしに、人の心まで壊しているのですから。

私、子ども生んでも大丈夫ですか。たとえ電気がなくなってもいいから、私は原発はいやだ。
 最後に、私自身が大変ショックを受けた話ですが、北海道の泊原発の隣の共和町で、教職員組合主催の講演をしていた時のお話をします。どこへ行っても、必ずこのお話はしています。あとの話は全部忘れてくださっても結構ですが、この話だけはぜひ覚えておいてください。

その講演会は夜の集まりでしたが、父母と教職員が半々くらいで、およそ三百人くらいの人が来ていました。その中には中学生や高校生もいました。原発は今の大人の問題ではない、私たち子どもの問題だからと聞きに来ていたのです。

 話が一通り終わったので、私が質問はありませんかというと、中学二年の女の子が泣きながら手を挙げて、こういうことを言いました。 

 「今夜この会場に集まっている大人たちは、大ウソつきのええかっこしばっかりだ。私はその顔を見に来たんだ。どんな顔をして来ているのかと。今の大人たち、特にここにいる大人たちは農薬問題、ゴルフ場問題、原発問題、何かと言えば子どもたちのためにと言って、運動するふりばかりしている。私は泊原発のすぐ近くの共和町に住んで、二四時間被曝している。原子力発電所の周辺、イギリスのセラフィールドで白血病の子どもが生まれる確率が高いというのは、本を読んで知っている。私も女の子です。年頃になったら結婚もするでしょう。私、子ども生んでも大丈夫なんですか?」と、泣きながら三百人の大人たちに聞いているのです。でも、誰も答えてあげられない。

 「原発がそんなに大変なものなら、今頃でなくて、なぜ最初に造るときに一生懸命反対してくれなかったのか。まして、ここに来ている大人たちは、二号機も造らせたじゃないのか。たとえ電気がなくなってもいいから、私は原発はいやだ」と。ちょうど、泊原発の二号機が試運転に入った時だったんです。

 「何で、今になってこういう集会しているのか分からない。私が大人で子どもがいたら、命懸けで体を張ってでも原発を止めている」と言う。

 「二基目が出来て、今までの倍私は放射能を浴びている。でも私は北海道から逃げない」って、泣きながら訴えました。

 私が「そういう悩みをお母さんや先生に話したことがあるの」と聞きましたら、「この会場には先生やお母さんも来ている、でも、話したことはない」と言います。「女の子同志ではいつもその話をしている。結婚もできない、子どもも産めない」って。

 担任の先生たちも、今の生徒たちがそういう悩みを抱えていることを少しも知らなかったそうです。

 これは決して、原子力防災の八キロとか十キロの問題ではない、五十キロ、一〇〇キロ圏でそういうことがいっぱい起きているのです。そういう悩みを今の中学生、高校生が持っていることを絶えず知っていてほしいのです。

原発がある限り、安心できない 

みなさんには、ここまでのことから、原発がどんなものか分かってもらえたと思います。

 チェルノブイリで原発の大事故が起きて、原発は怖いなーと思った人も多かったと思います。でも、「原発が止まったら、電気が無くなって困る」と、特に都会の人は原発から遠いですから、少々怖くても仕方がないと、そう考えている人は多いんじゃないでしょうか。

 でも、それは国や電力会社が「原発は核の平和利用です」「日本の原発は絶対に事故を起こしません。安全だから安心しなさい」「日本には資源がないから、原発は絶対に必要なんですよ」と、大金をかけて宣伝をしている結果なんです。もんじゅの事故のように、本当のことはずーっと隠しています。

 原発は確かに電気を作っています。しかし、私が二〇年間働いて、この目で見たり、この体で経験したことは、原発は働く人を絶対に被曝させなければ動かないものだということです。それに、原発を造るときから、地域の人達は賛成だ、反対だと割れて、心をズタズタにされる。出来たら出来たで、被曝させられ、何の罪もないのに差別されて苦しんでいるんです。

 みなさんは、原発が事故を起こしたら怖いのは知っている。だったら、事故さえ起こさなければいいのか。平和利用なのかと。そうじゃないでしょう。私のような話、働く人が被曝して死んでいったり、地域の人が苦しんでいる限り、原発は平和利用なんかではないんです。それに、安全なことと安心だということは違うんです。原発がある限り安心できないのですから。

 それから、今は電気を作っているように見えても、何万年も管理しなければならない核のゴミに、膨大な電気や石油がいるのです。それは、今作っている以上のエネルギーになることは間違いないんですよ。それに、その核のゴミや閉鎖した原発を管理するのは、私たちの子孫なのです。

 そんな原発が、どうして平和利用だなんて言えますか。だから、私は何度も言いますが、原発は絶対に核の平和利用ではありません。

 だから、私はお願いしたい。朝、必ず自分のお子さんの顔やお孫さんの顔をしっかりと見てほしいと。果たしてこのまま日本だけが原子力発電所をどんどん造って大丈夫なのかどうか、事故だけでなく、地震で壊れる心配もあって、このままでは本当に取り返しのつかないことが起きてしまうと。これをどうしても知って欲しいのです。

 ですから、私はこれ以上原発を増やしてはいけない、原発の増設は絶対に反対だという信念でやっています。そして稼働している原発も、着実に止めなければならないと思っていあす。

 原発がある限り、世界に本当の平和はこないのですから。



 

  
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Posted by goyaman at 10:20Comments(0)東日本大震災

2011年04月09日

Pray for Japan / Oremos por Japão

Pray for Japan / Oremos por Japão / 日本の為に祈りを。日本を守りましょう。

ジョンレノンが理想的な世界を歌った曲「イマジン」

世界中は、国や宗教の枠を超えて

日本の為に応援してくれています。




【東北地方太平洋沖地震】We Are The World For Japan(pray for japan)

ハイチの震災の時に、再び多くのアーチスト達が、立ち上がって歌った曲ですが
訳詩を見ると、今更ながら、この歌の素晴らしさが
心に染みます。
地球上の全ての災害時に当てはまる曲歌だと思います。


  
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Posted by goyaman at 22:47Comments(0)東日本大震災

2011年04月09日

2011年04月06日

被災地気仙沼に行って分かった事 避難所が必要な物



僕は気仙沼に行くまでは
支援物資より義援金を送る事が最良だと思っていました。
しかしながら、皆さんご存知のように
義援金は未だに配られていませんし
配られるまで、まだまだ時間が掛かりそうです。

勿論義援金はとても必要ですが
今現在だと現地では
現金が有ったとしても
買えない物、不足している物資が
未だに沢山あるのです。

必要な物資の内容は日々刻々と変わっています。
それと避難所によって必要とされている物が違います。
後は、救援物資の仕分けや配達を何処がやっているかでも
違うのです。

特に行政側の場合、頑張ってはくれているのですが
ピラミッド型の組織ですので
どうしても避難所暮らしの方の細かい要望に答えきれないようです。

例えば、下着メーカーのワコールが
三万枚の下着の提供を申し出たところ
行政側からの受け入れの返答が無いと言うニュースがありました。
未だに被災から一度もお風呂に入れない人が沢山居ます。
下着は今の時点では、とても必要ではないでしょうか。

毛布はすでに足りていると聞きましたが
仙台で見たテレビのニュースでは
何処の避難所かは知りませんが
お年寄り達が、土間にブルーシートを敷いて寝ているのです。
想像して見て下さい。
幾ら暖かい毛布を被っても
土間にブルーシートだけでは
凍えてしまいますよ。

毛布がもう一枚あれば、それを敷く事によって
随分と暖かくなるのではと思います。

私達が最初に支援物資を持って行った先は
小学校でした。
ここでは食料品だけしか受け取れないと言われました。
2トン車に満載された物資を抱えて
一同、途方に暮れました。

その後、小学校の近くに在る
避難所になっている公民館に行くと
全部欲しいと言われて、ほっとしました。

責任者の人に話しを伺いましたが
避難している方達は
殆ど着の身着のままで
津波から逃れて来た人達なのです。
古着とは言えども必要なのです。

今回の震災では地震による被害は一部で
殆どが津波による被害なのです。
何も持ち出せないまま逃げ出して来た人が
殆どです。

ところが自治体によっては
古着は受け付けないと言う所も在ります。
避難者の立場に立った気持ちや
想像力が欠如しているのでしょうか?

今回の震災では、被災地が非常に広範囲ですから
ピラミッド型の組織のみで活動を行うのは
無理が有ります。

ですから、最前線で活動してくれている
NPOや、公民館などの地域に根ざしている場所に
直接連絡をとって、避難所の方達が
本当に必要な物を聞いて送ってあげる事が
最良だと確信します。

私達が支援物資を手渡した避難所は
気仙沼の高台に在る
気仙沼市立松岩公民館です。

自ら被災者でありながら
運営を手伝っておられる方に
必要な物を教えて頂きました。
これから記載する品物は
恐らく何処の避難所でも必要だと思います。


①気仙沼市内では下水道の復旧が遅れているのと
 簡易トイレが多く使われているので悪臭が酷く
 消臭剤がぜひ欲しいそうです。

②避難所の方は、多くの方が一箇所に暮らしていますし
 未だにお風呂に入れない状態なので
 部屋用の芳香剤や消臭剤が必要です。

③未だに津波から逃れて来た時の靴を履き続けている方が
 多く、中にはサンダルやスリッパの方も居ます。
 靴、スニーカー、長靴などを必要としています。

④耳栓、一部屋に沢山の人達が暮らしていますので
 いびきや子供の泣き声等で安眠を妨げられる事が多いので
 とても必要との事です。

⑤石鹸、使い捨てのマスク、生理用品、男女問わず下着類
 ウエットテイッシュ、歯ブラシ、子供達の為の文具セット
 絵本、割り箸、スプーン、おしり拭き、電池、懐中電灯、ホッカイロ
 お菓子類、赤ちゃん用品、靴下、ランドセル、タオル、シャンプー
 新鮮な果物、野菜類、玩具

※役所は公平、平等が原則ですから
 皆に万遍なく行き渡る物資を優先させますので
 直接各避難所やNPOに連絡をして
 各避難所で必要な物を調達して送ってあげると
 とても喜んで貰えると思います。

被災地から遠く離れた沖縄でも支援の輪が広がっています。
ぜひ暖かい沖縄に来て欲しいです。

沖縄県、旅費や宿泊費を負担 東日本大震災被災者受け入れ

2011年4月6日
 東日本大震災の県内への被災者受け入れで、県は5日までに、宮城、岩手、福島3県からの被災者の一時的な県内への避難について、往復の航空運賃とホテル宿泊費を県負担とする支援策を決めた。業界団体の協力を得た対応で、期間は当面4、5月の2カ月間。対象は3県の被災者で最大3千人程度を想定。往復の航空運賃と、1日当たり1人5千円程度を上限とした宿泊費を県が全額負担する。
 原則として罹(り)災証明書・被災証明書が必要だが「個々のケースに応じ相談していきたい」(又吉進県知事公室長)と柔軟に対応する構え。期間も事態の推移を見て検討する。
 支援態勢は、日本旅行協会沖縄支部、日本ホテル協会沖縄支部、県ホテル旅館生活衛生同業組合、沖縄観光コンベンションビューローの協力を得て実施。県が設置している受け入れ対策チームで相談を受け付け、航空券や宿泊施設を手配する。同チームに旅行会社から職員を1人派遣し手続きをスムーズに進める意向。
 ただ4月以前の航空運賃、宿泊費は原則として対象外。
 予算は最大で10億円を想定しており、予備費で対応する方針。県は難航しているチャーター機による大規模受け入れについても引き続き調整を進めていく。
 県では、対策チームを通じた利用を呼び掛けている。チームへの問い合わせは(電話)090(3794)0530、(電話)090(3794)8217、(電話)090(3792)3168、(電話)090(3792)3161、(電話)090(3790)0137、(電話)090(3790)1713。




  


Posted by goyaman at 11:17Comments(10)東日本大震災

2011年04月06日

被災地 気仙沼に到着



東京を立って、直接気仙沼に行く予定でしたが
島根県から合流した安藤さんが予め送ってあった
荷物を取りに行ったりと時間が掛かったので
新聞の集配所を経営しているネット仲間の事務所に
泊めて貰いました。
車で寝る事を覚悟していただけに
一同、Pさんの宿の提供、心から感謝しました。

朝五時に気仙沼に向け出発しました。
被災地には、今回の震災で献身的な貢献をして下さった
自衛隊の方達が全国から続々と集結してくれています。
思わずご苦労様と声を掛けました。



気仙沼は宮城県ですが、岩手県との県境に近く
高速の東北自動車道を利用して一関経由で
三時間半位掛って到着しました。
この辺りは、埃っぽいだけの普通の光景です。



しばらく行くと物凄い惨状が目に写ります。
巨大な怪獣に投げ捨てられたような
ぐしゃぐしゃな車とミンチに掛けられたような
家の残骸が広がって来ます。



沿岸から結構離れた地点でもこの有様です。
いかに津波の破壊力が凄いかが分かります。



河川にも、多くの車が大破して散在しています。
自然の猛威に対しての人間の無力さに
ただただ泣けて来るばかりです。



震災以来、ずっと安否を心配していた
親友と二十数年振りに再会する事が出来ました。
お互い老けちゃいましたが
学生時代にタイムスリップした気持ちでした。

駆けつけた僕に、頭薄くなっただの
腹出たのだとと悪態付くほど元気でした。
今日は、何を言われても嬉しいです。

彼は地震直後に車で高台に向けて逃げたのですが
渋滞に巻き込まれ、前からは車が回転して流されて来たそうです。
それで車を放置して、近くの崖によじ登ったのですが

水の中で助けを呼ぶ二人を
崖から降りて肩まで水に浸かりながら助けたそうです。
相変わらず男気の有る凄い奴です。



僕達には、もう一つの大切な仕事があります。
四人とも気仙沼に彼以外に知り合いは居ないので
彼に配布場所を相談しました。

最初に松岩小学校に救援物資を持参して
物資受付に片に相談したら
食料品以外は要らないとの事でした。

取りあえず北本の卵屋さんから
頂いた卵と食料品を受け取って頂いたのですが
内心、それ以外の物の配布をどうしようかと
途方に暮れてしまいました。

せっかく島根県の方達から
送って貰った100箱以上の救援物資を
配布せずに帰って来る訳にはいきません。



何処かの広場で僕達独自で配布しようかと
思っていたところで
友人の奥さんが、小学校とは
目と鼻の先に在る松岩公民館を紹介してくれました。
ここも避難所になっています。

公民館の方に相談したところ
全部欲しいと言ってくれたので
一同、胸を撫で下ろしました。
避難所によって、必要な物には
大きな違いがある事を痛感しました。



ボランテイアの方達に手伝って貰い
あっと言う間に荷降ろし完了です。



日本中から被災地に沢山の自治体の方が
派遣されているようですが
このお二人は、佐賀県から派遣された公務員の方です。
頼もしいです。



短期間でこんなにも多くの救援物資を送ってくれた
島根県の松江市の皆さんに感謝感謝です!!
昨晩までは、二泊の予定を覚悟していましたが
配布もすぐに完了する事が出来て
すぐに一路東京を目指す事が出来ました。



帰る時に、先ほどの河川を再び通る時
土手に在る、延々と続く桜並木に気付きました
しばらくすると美しい桜の花を咲かせてくれるのでしょうか。
その光景を想像すると神妙な気持ちになりました。  


Posted by goyaman at 01:37Comments(0)東日本大震災

2011年04月04日

被災地 気仙沼に出発



今朝は六時半に渋谷を出て
僕を気仙沼まで同乗させてくれるSさんが待っている
埼玉県の北本市まで電車で行きました。

北本に住んでいるSさん、Nさん
そして島根県から合流してくれたMさんと一緒に
出発です。



途中、Sさんの友人の卵屋さんが
新鮮な卵を10箱も提供してくれました。



卵を提供してくれた方です。
後で聞いて分かったのですが
何と市会議員さんでした。



後は、ペンキ屋さんが、手袋とマスク、タオル類を
大量に提供してくれたりと
車があっと言う間に救援物資で一杯になりました。



高速の東北自動車道を通り、四人で気仙沼を目指します。

島根のMさんの話では、支援物資を仙台市内の運送屋に
配送済みと言う事だったので
確認に言ったら、何と100パッキン以上でした(汗



そこで急遽、レンターカーを借りる事になりました。


今回の気仙沼行きは友人に会う事が目的でしたが

被災にあった多くの人達に救援物資を配る事になりました。

こう言う機会を与えられた嬉しく思います。



仙台市内は、今回の震災の影響をあまり受けていないような感じでしたが

湾岸部に行くと、とんでもなく悲惨な光景が広がっています。



津波の被害にあった、巨大ショッピングセンターや

全国チエーンのロードサイドが延々と続きます。

あちこちに多くの車が

無重力地帯に投げ込まれたような姿で

散乱しています。

今回の大災害は、地震による被害よりも

津波による被害が殆どではないかと思います。


明日は、5時に仙台を出発して

気仙沼に向かいます。







  


Posted by goyaman at 22:00Comments(4)東日本大震災

2011年04月03日

被災地 気仙沼に行って来ます。



気仙沼に行って来ます。

僕の友人は、漁具屋さんなので

自宅が港のすぐ傍でした。

震災直後、ニュースで彼の住む気仙沼の惨状を見て

驚愕しました。

昼間は嘗て見た事の無いほどの大津波

夜は街中が火の海でした。

祈るような気持ちで

彼の安否を様々な方法で探しました。


携帯は繋がらず、情報収集はネットのみが頼りでした。

安否確認サイトを見た娘さんから連絡が有り

彼の無事を確認出来た時は

嗚咽する位の嬉し泣きをしました。


彼と知り合ったのは、大学一年の時です。

授業の時、教科書を忘れた僕は

彼に見せてくれるよう頼みました。

無口そうな彼は、にこりともせず

見せてくれました。


それからしばらく経って

沖縄から送って貰ったアメリカ製のチョコレートを

お礼に渡しました。

こんなチョコレート見た事無いと

とても喜んでくれました。


気仙沼出身と沖縄出身の二人の友情は

バレンタインデーのようなチョコレートの

プレゼントから始まったのです(笑


彼には本当にお世話になりました。

お互いにお金の無い大学生ですが

彼の家は漁具屋さんですから

実家からは、美味しいササニシキや

海の幸が送られて来たので

仕送りのお金が無くて空腹の時に

彼のアパートに行くと

いつもご馳走してくれました。


失業中で食うや食わずの僕を気仙沼に呼んでくれて

家族全員で大歓迎してくれた事もあります。    

気仙沼には、彼の結婚式に行ってからは

二十数年の歳月が経っていますが

昨日の事のように思い出されます。


彼と初めて携帯が繋がった時

僕は大丈夫かとは言いませんでした。

彼は大丈夫だと言うに決まっていますから


彼は地震直後に津波が来ると核心して

車で高台に向かって避難したそうです。

港に傍に住んでいたので

常に心の準備を怠っていなかったのですね。

すでに携帯は使えなかったはずですから

逃げながら子供に俺は大丈夫だとメールして来たそうです。


お前、よく逃げながらメールなんか出来たなあ。

逃げる時、車が渋滞して

前から回転しながら車が流されて来て

崖が見えたので、必死によじ登ったよ。

崖の上から、二人は助けたけど

三人目のお母さんみたいな人は

助けられなかったあ

世の中は非情なもんだなあ。


僕は、ただただ彼の話を聞く事しか出来ませんでした。

最後に彼が言いました。

お前の声聞いて元気でたあ

友人としてこれほど嬉しい言葉は有りません。


震災後、すぐにでも会いに行きたいと思っていましたが

ライフラインが復活していないのに

無理して行くと、返って周りに迷惑が掛かります。


知り合いが、救援物資を持って仙台に行くと言うので

往復のガソリン代を僕持ちで

一緒に同乗させて貰う事になりました。


今日は朝早く起きて、フリマやホームセンターなどで

必要と思う物資を色々集めて来ました。

沖縄は、米軍統治の影響もあって

非常食になるような、缶詰類がとても豊富なので

沢山送って貰いました。


彼の奥さんは、気仙沼同様、大被害にあった

大島で、幼稚園の先生を長年やっています。

幼稚園は避難所となって

不眠不休で、避難者達の世話をしています。

子供達の為に、彼と出会いのきっかけになった

アメリカ製のチョコレートを沢山持って行きます。


彼は、もっと落ち着いてから来たらどうだ

今来ても何も無いよなんて言っていました。

何も無いのは、当たり前です(笑

とにかく僕は彼に会いたいのです。

明日の朝出発します。  


Posted by goyaman at 20:48Comments(4)東日本大震災

2011年04月03日

「無用の長物」と化す ソフトバンク携帯

震災が暴いた「儲け至上主義」

東日本大震災から半月が過ぎ、壊滅的な打撃をうけた携帯電話のインフラ復旧が手探りの中で進んでいる。本稿執筆の三月二十五日時点では停波基地局はドコモが八百六十局、KDDI五百二局、ソフトバンク五百七十三局まで改善したとしている。のど元はすぎたとはいえ、利用者は震災直後、無用の長物と化した携帯電話への失望感を忘れはしまい。だが復旧の途上では早くも携帯キャリア同士のさや当てが始まった。

各社全滅地域で存在感アピール
「ドコモやKDDIは通じるのにソフトバンクはまったく通じない」----。震災直後から、被害の度合いが大きかった宮城県気仙沼市や、岩手県大船渡市などからこうした不満が燎原の火のように広がっていた。

 孫正義ソフトバンク社長は、震災直後からツイッターなどを通じて積極的に発言し、菅直人首相や仙谷由人官房副長官、被災地の福島県や宮城県の知事と会談するなど、八面六臂の活動を続けているが、「政治パフォーマンスばかりで通信会社の責務を果たしていない」と批判が広がった。

 基地局は携帯電話サービスの生命線であり、最大手のドコモが全国に十万五千局、KDDIが五万七千局、もっとも設備が遅れているといわれるソフトバンクも公式には十二万局まで設置を進めている(二月現在)。ただ各社とも全国での設置分布までは公表していない。ソフトバンクは「そもそもどんな基地局をカウントしているのかわからないうえ、都市圏など需要の多い地域に重点配備したのが裏目にでた」(総務省関係者)との見方が多い。

 あまりの不通状態に業を煮やした地元テレビ局「岩手めんこいテレビ」はウェブ上でソフトバンク携帯の通信状況を特設ページで監視しはじめた。それによると震災から十日以上たった三月二十三日時点でも陸前高田市、大船渡市、大槌町、田野畑村など六市町村で「全域使用不可」が続いている。「復旧に手間取っているというより、ほとんど手を付けていないのではないか」(同関係者)というほどだ。

 この関係者の言うとおり、ソフトバンクは意識的に復旧に手を抜いているフシがある。
「NTTドコモやKDDIの携帯電話基地局が残っている場所ではソフトバンクの携帯も使えるようにローミング義務を課すべきだ」----。携帯各社が倒壊・断線した基地局の復旧を急いでいた三月下旬、ソフトバンク幹部が総務省に乗り込んでこう直談判した。自社設備が壊滅した場所では他社の基地局で通話を維持させようというわけだ。

 一方でソフトバンク社内ではこんな指示が飛んでいるという。「ドコモもauも使えないところは復旧のピッチを特別に上げろ。ドコモやauが使えるところは通常復旧作業でいい」。つまり自社設備がつぶれた場所は他社に乗っかり、全滅地域にソフトバンクの旗を立てて存在感をアピールする。トップは政治パフォーマンスに明け暮れ、幹部は総務省を揺さぶり相変わらずのタダ乗り作戦を練る----。

 ソフトバンクといえば、原口一博前総務大臣と組んで、NTTを分割し、光回線にタダ乗りする「光の道」構想で過去一年にわたり通信業界を揺るがしてきた。「未曽有の災害でもただでは起きないソフトバンク商法に恐れ入る」とライバル各社は鼻白んだ様子だ。

 復旧過程だけでなく、震災直後の不通ぶりもソフトバンクは突出していた。「ソフトバンクは禁じ手の一〇〇%規制をしていたのではないか」----。ある通信業界関係者は指摘する。

 非常時の通話規制には二つの種類がある。一つは公的機関の優先通話を確保するために基地局が自動的にかける規制。もう一つは基地局より先にある交換局において手動で行う規制だ。全国から被災地に向かう関門交換局で、トラフィック(通信量)の混雑具合を見ながらオペレーターが制御する。ソフトバンクは公式には九五%の発信規制を実施したとしている。一〇〇%の規制は電気通信の役務上禁止されている行為だ。

起こるべくして起こった通話マヒ

 W−CDMA携帯電話の国際標準化機関である3GPPは二〇〇二年に標準規格「リリース5」を採択、これ以降、音声通話(回線交換)とパケットを分離して管理できるようになった。これに対応した携帯端末は三〜四年前から販売され現在主流になっている。
 限られた周波数を音声に振り分けるか、データ通信に振り分けるかは、蛇口をひねるように携帯電話会社のさじ加減次第ということになる。

 儲からない音声通話からドル箱のデータ通信へのシフト----。ある通信アナリストは「今回の未曽有の通話マヒはこうしたトレンドの中で起こるべくして起こった」と話す。それを先導していたのが、ほかならぬソフトバンクだ。

 震災が起こるほんの一週間前、米アップルが発売を予定していたタブレット端末「iPad2」の話題で沸いていた。もはや記憶のかなたの出来事のようだが、iPadやiPhoneのみならず、続々と発売が予定されるスマートフォンが携帯電話の主役に躍り出て、携帯の用途は通話からパケット通信へと大きくシフトしていた。

 事実、音声通話のARPU(加入者一人あたり月間売上高)減少は世界の携帯電話会社が直面する課題だ。音声ARPUの減少を、データARPUの増加で相殺し、再成長の軌道に乗せるのが携帯会社の生き残りの道であり、日本の通信キャリア三社は音声依存率が五〇・八%と、世界平均(七六・五%)より低く(クレディ・スイス調べ)、いわば優等生グループに位置している。中でも突出しているのがソフトバンクである。ソフトバンクは初代iPhoneを投入した〇八年度第4四半期に音声依存度が六五%を切り、同時にそれまで漸減していた総合ARPUが上昇に転じた。

 ソフトバンクだけでなく、携帯各社が利潤追求のためデータ通信シフトに大きく舵を切る中で、地震はその死角を突いた形になった。通話もメールもできず、被災地ではバッテリーも切れ、寒空の下には公衆電話に並ぶ長蛇の列。通信会社のキャンペーンに乗って、携帯電話にすべての通信手段を依存してきた日本国民がこのときほど裏切られたことはないだろう。

 通信会社には一刻も早いインフラ復旧と、通話という基本サービスの位置づけを再度見直すことが求められる。
「私は、臆病者です。福島原発を心配しています。だから、東京を出て福島に向かっています。これから福島県知事にお会いします」(孫社長の三月二十二日付ツイッター)。ユーザーが携帯キャリアに求めているのは「冗長な発信力」ではない。寡黙にして揺るがない携帯電話そのものの発信力なのだ。

                              三万人のための総合情報誌『選択』より転載

  
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Posted by goyaman at 10:24Comments(0)東日本大震災

2011年04月03日

福島第一原発20~30キロ圏内で何が起きているのか



福島第一原発20~30キロ圏内で何が起きているのか
自主避難という政府の低劣レトリックで深まる危機


 福島第一原発を巡って予断を許さない状況が続いていることは、日々の報道から皆様もご存知と思いますが、地元の経済は、政府の中途半端で自らの体面や保身を優先した対応により大変なことになっています。

20~30キロ圏で政府がやっていること
 読者の皆様もご承知のように、政府は福島第一原発から20キロ圏の住民に対しては避難指示を出していますが、20~30キロ圏の住民に対しては自主避難を促すに止まっています。

 この“自主避難”というのは、実は非常に中途半端な命令であることをよく考える必要があります。20キロ圏については法律に基づく命令を出しているので、明示的に危険地帯であると認定しているに対して、20~30キロ圏については、“基本的には安全だけど、念のために自主的に退避した方がいいですよ”と言っているだけなのです。

 この、20~30キロ圏が危険なのか安全なのかが不明確な政府の中途半端な対応により、現地では大きな問題が生じています。

 政府内からの情報によれば、先週後半の官邸内の会議で「20~30キロ圏の住民には自主退避を促す一方で、動けない人々のために、圏内における経済活動の正常化を民間企業に促す」という、絵に描いたようなアブハチ取らずの方針が確認されたそうです。

 また、その方針を受け、地元の経済活動に関連する様々な業界(小売、運輸、輸送など)に対しても、監督官庁を通じて、出来る範囲で従来通りの営業をしてくれないかという打診が来ているようです。

 しかし、当たり前のことですが、政府は20~30キロ圏が危険地域と認定している訳ではないので、被曝の可能性について関係者の身の安全は政府が保障しないことが前提となります。となると、従業員の生命と安全を守ろうとするまともな会社は、当然ながらなかなか協力できません。

 このため、地元のまともな会社の多くが事業の再開を渋っていると、今度は官邸から、「官邸には20~30キロ圏内で活動すると志願する企業が来ているんだから、業界団体で志願者を募れ!」という圧力が色々なルートからかかってきたようです。

 しかし、そのように志願してきた企業の実態は、震災で仕事がキャンセルとなって経営が苦しくなった民間企業が、にっちもさっちも行かなくなって手を挙げているケースが大半のようです。


政府の中途半端な対応ゆえの混乱

 官邸のこの対応はちょっとひど過ぎます。自主避難という、危険なのか安全なのか不明確かつ中途半端な指示しか出さない一方で、真っ当に頑張っている民間事業者に対してはそこでの経済活動を強要しているのです。

 そして、この問題の解決は実は難しくありません。20~30キロ圏が安全なのか危険なのか、その白黒をまず政府がはっきりさせればいいのです。もちろん、安全と宣言するのは実際には困難です。

 そう考えると、現実的には、政府が20~30キロ圏も危険な地域と事実上認めるしかありません。具体的には、民間事業者に対して法律に基づく命令を出せば良いのです。例えば輸送については、道路運送事業法の緊急時の輸送命令を発令すれば、補償責任はすべて政府が負う代わりに、民間の運送事業者を出動させられます。

 しかし、そうした対応を取ると、“20~30キロ圏内は基本的には安全なので、あくまでも社会的な理由で自主避難”と言う政府のこれまでの発表・理屈と矛盾してしまいます。だからこそ、法律に基づく命令とかは出さず、行政指導的な圧力を民間にかける形になっているのです。

 野菜や水の場合も同様の問題が生じていますが、20~30キロ圏への対応について、官邸は、自分たちがリスクを取りたくないし、批判もされたくないので、自主退避という低劣なレトリックを使い、訳の分からない作戦指示になっているのではないでしょうか。その結果、現場ではずっとこの問題への押し問答が続いているのです。

 そのすべての元凶は、20~30キロ圏について屋内退避や自主避難という非常に暫定色の強い措置を、政府がもう2週間も引っ張っていることです。20キロ圏と同様に避難指示を出すか、または安全宣言をするか、白黒をはっきりさせる決断を政府が早く下すべきなのです。

 20~30キロ圏内に取り残された人々の生活はますます困窮を極めており、それをこのまま放置しておくと、また命を失う人が増えます。ここで述べたような民間事業者への強要を官邸で誰が中心となってやっているかを、私は個人名レベルで知っていますが、敢えてここでは書きません。

 しかし、政治家や官僚のお偉いさん達の保身、アリバイ作り、ええ格好しい、点数稼ぎのせいで現場の経済活動がかえって混乱し、20~30キロ圏の住民の生活が一層苦しくなるというのは、もう見るに耐えません。

 今のような国難のときこそ、政府は迅速に決断しなくてはなりません。暫定色の強い判断をこれ以上引っぱり続けてはいけません。この期に及んで保身やアリバイ作りに汲々とするような状態は止めるべきです。

                                ダイヤモンドオンラインより転載  
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Posted by goyaman at 01:59Comments(0)東日本大震災