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2010年05月31日

久しぶりにアルテ崎山へ

僕は昨晩沖縄に帰って来ました。
空港に迎えに来て貰った男性社員を伴って
アルテ崎山に直行しました。

スーチカと言う豚肉を塩漬けにした本来は保存食ですが
これがまた、とても美味しいのです。
料理も良いのですが、アルテ崎山の空気感が大好きです。

食事の後、帰ろうとしたら
はみんぐばーどの山城さんが、ふらりと現れたので
今日は何かイベントが有るのと聞きましたら
僕が戻って来るので、何人か集まるとの事

ギターを沢山持っているだけの
へたくそ親父の為にと大感激です(涙
一度戻って用事を済まして
テイラーのギターを取って、再びアルテ崎山に戻りました。



はみんぐばーどさん達がベースとピアノでバックを付けてくれました。
僕は若い頃ずっとユニットで活動していましたので
独りで弾き語るより、バンドでやるのが大好きです。
僕は嬉しい時アンパンマンのように、ほっぺが盛り上がります(笑



だんぱち彦さんも、最近はアルテ崎山さんの常連さんです。
素敵なオリジナルを、パワーの有る声で歌ってくれました。
沖縄は、やはり音楽の島です。
本業は理容室経営ですが、聴く人の心を揺さぶるオリジナルを
沢山お持ちです。

悲しみのサバニ だんぱち彦さんオリジナルソング




アルテの素晴らしいところは、ジャンルを超えた素敵な方達が
一緒にセッションしてくれる事です。
この日は、本土から来られて沖縄民謡を習っている女性と
石垣島から来られた南米の縦笛の
ケーナを吹く方がセッションしてくれましたが
サンシンとケーナの音の相性の良さに、びっくりです。

八重山民謡の月のカイシャも素敵でしたが
S&Gのコンドルは飛んで行くを即興で演奏した時は
余りの素晴らしさに手が痛くなる位、拍手しちゃいました。
この歌にウチナーグチで歌詞を付けたら面白いと思います。

いつも長い出張の疲れを癒してくれる
アルテ崎山と素敵な常連さんに感謝です。  
タグ :アルテ崎山


Posted by goyaman at 12:08Comments(6)一般

2010年05月25日

MARTIN D-18Sを嫁に貰ってくれた西山さんからメールが

僕が20歳の時に、必死にバイトして、アメリカまで買いに行った
MARTIN D-18Sを嫁に貰ってくれた
奈良県の西山さんから、ギターの近況を伝えるメールが来ました。

D-18Sは僕にとって思い出深いギターで
一生手放すつもりは無かったのですが
ヤフオクで、西山さんからMARTIN D-18 1938CUSTOMを購入した縁で
その後メールのやり取りをしていましたが
彼がノーマンブレイクが持つ、D-18Sを所有するのが夢と言う話を聞いて
瞬間的に、このギターは、彼の元に行くべきだと決めました。
こうしてメールに添付されている写真を見ていると
西山さんにお譲りして良かったと嬉しくなります。

色々と手を加えられて見違えるほどになったギターが
幸せそうに僕に微笑んでいるようです。

表板はオーバーコートしたのでしょうか?
大分美人になったような



ブリッジをロングサドルに交換したそうです。
ロングサドルはテンションが増すので、よりパワーの有る音がしそうですね。



このギターのフレット板は硬いハカランダですが
僕が40年間引き続けたのでフレット板がえぐれていましたが
何とフレット板そのものをエボニーに交換したらしいです。
凄く経費が掛かったと思いますが、それだけ気に入って頂けたのでしょうね。



最後に西山さんのD-18Sを使った絶妙なプレイをご覧下さい。
西山さんにギターをお譲りして本当に良かったと思います。
まだお会いした事は有りませんが、いずれお会いしたいです。
西山さんから譲って頂いたMARTIN D-18 1938CUSTOMは
とても気に入ってて大切に使わせて貰っています。

  


Posted by goyaman at 10:55Comments(0)ギター

2010年05月23日

[感動]レジ打ちの女性(涙の数だけ大きくなれる!)

僕が感動した物語が有ります。
どんな仕事をしても長続きしなかった一人の女性が
幼い時の自分の日記に書いて有った
ピアニストになりたいと言う文章を見て
レジ打ちをピアノを鍵盤を見ずに弾けるように
練習して、いつしかレジ教育をする役職を得るまでになります。

この物語を見ると

僕が大好きな「あなたが立っている足元を深く掘ってごらん
きっとそこから泉が湧き出る」
と言う言葉を思い出します。

それとセルフサービスが普通になり
昔の商店のように、お店とお客さんの会話が
無くなっていますが
やはり僕達は人と人との温かいふれあいを
求めているのだと思います。

人は自分が他の人から必要な存在とされ
自分自身も人の役に立てると思った時に
大きな喜びを得るような気がします。



  


Posted by goyaman at 23:45Comments(2)一般

2010年05月22日

虐待はどんな傷を残すのか

この頃、悲しいことに、毎日のように幼児虐待のニュースが飛び込んで来ます。
私達は、豊かさと引き換えに、親としての本能が退化してしまったのでしょうか?

祝福されて生まれて来たはずの子供達のはずなのに
虐待されて、命を落としたり
そのトラウマから、成長しても心の病を患ったりしています。

そのような親としての資格が無い人達から
一刻も早く子供達を守る国の制度が急がれます。

※以下はサンケイ新聞からの転載です。

「僕のこと、ふつうに見えますか」

長身で色白の青年は、統合失調症による精神障害者手帳を持っていた。さいたま市のカラオケ店員、山口拓也さん(19)=仮名。小学5年のときに実母(45)が再婚、継父(43)から身体的虐待を受け、市内の児童養護施設で育った。

 「夕食を食べるのが遅かったので、テーブルに時計を置かれ、30分以内に食べないと殴られた。猫背や、つめをかむ癖も『直せ』といって殴られた。1発、2発ではなく、のしかかられて腕を押さえつけられ、顔だけを殴られたり、木の棒で頭を殴られたりした」

 継父は「大きくなれ」といって食事を吐くまで食べさせた。食べきれず吐き出すと、吐いた物を再び食べさせられた。コンクリート製のベランダで深夜まで正座させられ、生卵5、6個の一気飲みを強いられた。

 中学1年のとき、木刀を手に追いかけられた。裸足(はだし)で外へ逃げたら偶然、家庭科の女の先生に会った。「親に裸足で走れといわれた」とごまかしたが、先生は自宅を見に来てくれ、警察を通じて児童相談所へ通報が行った。

 「施設へ入ったら、不眠と幻聴が始まった。ひそひそ話が聞こえ、幻覚が見えた。情緒不安定のため県立高校を2年で中退し、定時制に入り直したけれど続かなかった。今も通院中で薬を6種類飲んでいます」


「男なら捨てていた」

 東京都内に住むゲームショップ店員、南裕子さん(27)=同=は男物のカーキ色のジャケットとジーンズ姿で現れた。髪は短めで化粧気もない。女性であるが、心がそうではいられないという。

 幼いころ、「教育ママ」だった実母(51)から身体的、心理的虐待を受けた。習い事がうまくできないと「なぜできないの!」と叩(たた)かれ、振る舞いや言葉遣いが意に沿わないと平手打ちされた。「欧米のしつけ」と定規で手の甲を叩かれ、かっとなると包丁が飛んできた。

 「口答えするとさらに叱(しか)られ、黙り込むと叱られ、泣いても叱られ、どうしていいか分からずパニックになった。いつもびくびくして、自分からは何もやらなくなった。暗い子供というより、人形のようだった」

 母は男の子がきらいだった。「あんたが女の子だから育ててるんだから」「男だったら捨てていた」と何度も聞かされた。

 「男だったら捨てられる…。この恐怖は幼心にとても重たいものだった。私は『女の子』になろうと努力した。人形遊びやおままごとをやってみせ、好きではない色の洋服を着た」

 専門学校を出て、22歳で初めて母と離れて暮らし、解放されたと感じた。服装を自由に選ぶようになると男装を始めていたという。

 「親から認められないことほど子供を苦しめることはないと思う。自分の存在価値をどこに置けばいいか分からず、自己の確立が遅れてしまう。傷は大人になっても影響が続くのです」

「いまさら何を心配」

 大正大学の玉井邦夫教授(50)=臨床心理学=は「交通事故やいじめ、大災害などさまざまなトラウマ(心的外傷)の中でも、虐待は最も深い傷を残す」と指摘し、こう続けた。

 「虐待と一口に言っても身体的虐待とネグレクト(育児放棄)、心理的虐待、性的虐待では影響は異なり、一人の子供の中で複合している。回復は時間を要し、また個別性が非常に高いため一人一人に適切な対応が求められる」

 児童虐待として認知される件数は年間4万件を超え、増え続けている。国の統計がある平成2~20年度の19年間の累計は31万7767件。一人の子供が何度か認知された重複もあるが、虐待経験を持つ若い世代が把握されただけでも数十万人、今も社会の中で暮らしていることになる。

 精神障害に苦しむ山口さんは昨春、施設を出てアパートで独り暮らしを始めた。継父と実母は同じ埼玉県内にいる。夫に逆らえず一緒になって虐待していた母親は最近、訪ねてきて洗濯用の洗剤と現金3千円を置いていった。

 「様子を見に来たのだろうが、いまさら何を心配してんのと思った。両親に対しては『無』ですね。どーでもいいとすら感じない。まったく意識していない。たぶん死んでも何も感じないだろう」

きみは愛されるため生まれた (You Were Born to be Loved) - 松本優香


上の曲は韓国で生まれたゴスペルで
地下鉄のホームにBGMとして流したところ、自殺者が減ったそうです。
僕はこの数日、この歌の「きみは愛されるために生まれた」と言うフレーズが
頭の中をぐるぐる回っています。  


Posted by goyaman at 23:32Comments(4)一般

2010年05月19日

断言するよ、あなたが世界一のパパだってことを

※らばQより引用

この親子の物語は息子のリック・ホイトさんが生まれるところから始まります。

出産時にへその緒が絡みつき脳に損傷を受けたため、
四肢のコントロールが麻痺してしまいました。

体を全く動かせない彼が望んだこと、それはマラソンでした



ディックとリックのホイト親子は、チーム・ホイトと呼ばれています。

それは父親のディックさんが、どのマラソンにもリックさんを連れて走るからです。


ディックさんは合計85回もリックさんを押して走りました。
そのうち8回は押すだけでなく、小型ボートにリックさんを乗せて引っ張って泳いだり、
自転車でペダルを踏んで運んだりすることもありました。

クロスカントリー・スキーで長距離をおんぶしたり、
マウンテン・クライミングや、自転車で引っ張って行くこともあったそうです。

リックさんが9ヶ月のときには、医師から一生植物人間のような状態になると言われましたが、
ディックさんと妻のジュディさんは息子の目が二人を追いかけていることに気づき、
病院施設に入れることを拒みました。



リックさんが11歳の時、両親はTufts大学のエンジニア部門に連れて行き、コミュニケーションをとる方法がないかを尋ねてみましたが、話しかけても反応がないので無理だと言われました。しかしそれに納得できないディックさんから、息子に向かってジョークを言ってみてくれと頼まれ試してみると、リックさんは笑って見せました。彼はきちんと言葉に反応し、コミュニケーションが取れることがわかったのです。

その後、コンピューターを取り付け頭でカーソルを動かせるようにすると、ついにコミュニケーションを取ることが可能になりました。

あるときハイスクールのクラスメートが事故で全身麻痺になり、学校が彼のためにチャリティマラソンを主催したそうです。それを見たリックさんは「あれを僕もやりたい」と言いました。

そのときまでディックさんはろくに走ったことなどありませんでした。1マイル(約1.6km)すら一人で走ったことがないのに息子を押して5マイル(約8km)も走るのは酷に思えました。しかしながらそれでも挑戦してみたのです。

走った後、今度は父親のほうがハンディキャップがあるかのように動けなくなってしまいました。丸二週間、体のあちこちが痛んだそうです。

ところがその日はリックさんの人生を一変させました。

「父さん」

リックさんはタイプを続けます。

「二人で走ってるとき、身体障害者じゃないようだった!」と。

最初の数週間は大きなマラソンに混じり、ただただ走っていました。しかし多くのレースで参加を断られたりもしました。シングル走者でもなければ、車椅子走者でもなかったからです。

そのうちに正式に参加する方法を見つけ、1983年のマラソン参加ではタイムも優秀で、翌年のボストンマラソンの資格を手に入れることができました。

やがて「トライアスロンに挑戦してみてはどうか」と勧められましたが、泳ぎを学んだこともなければ、自転車に乗ったのも6歳の頃が最後というディックさん。50キロの体重の子どもと一緒に、どうやってトライアスロンをしたら良いのか見当もつきませんでした。

しかしながらディックさんはチャレンジしたのです。

彼らはいくつものトライアスロンに挑戦しました。成人した子どもを引っ張りながら泳ぐディックさんが、若者を抜かしていくこともありました。

一人でやってみるのはどうかと打診も受けたようですが、ディックさんは息子の笑顔が見たくて一緒に走り、泳ぎ、漕ぎ続けたのです。

第24回ボストンマラソンでは、2万人の参加者の中で5083番目。ベストタイムは1992年の2時間40分で、それは世界記録から35分遅いだけでした。もちろん世界記録を出した人は車椅子を押していたわけではありません。

息子のリックさんは言っています。「父さんは間違いなく今世紀を代表する父親だ」と。

数年前にディックさんが心臓発作を起こしたときには、大動脈の95%が血栓で詰まっていたそうです。医者からは、「もし運動をして健康的でいなかったら15年前に亡くなっていただろう」と言われたそうです。

そう言う意味で、二人の親子はお互いの命を助け、支え合っていたと言えます。

現在リックさんはホームケアを受けながら一人で暮らしています。ディックさんは定年退職し、現在はオランダに住み、二人はいろんな国でスピーチをしてまわっているそうです。

リックさんが一度してみたいと思っていることがあります。

それは、父を椅子に座らせ自分が押すこと。

きっと父親のディックさんも、世界一の息子と思っているのではないでしょうか。
  


Posted by goyaman at 11:03Comments(0)一般

2010年05月19日

レーナマリア 天使の歌声



十数年前、両親が通っていた教会の縁で
スウェーデンから来たレーナマリアさんの
コンサートの会場係のお手伝いをしました。
僕は彼女に対して何ら予備知識も無かったのですが
会場で、彼女の歌を聴いて、打ちのめされました。
YouTubeで彼女を紹介したTV番組を発見しましたので
紹介します。音楽の力は凄いです。

世界に響け奇跡の歌声 レーナ・マリア 笑顔で幸せを届けたい!


  


Posted by goyaman at 02:59Comments(0)音楽

2010年05月17日

天国のトム爺



長く生きると言う事は
それだけ、他の人の天国への旅立ちに
遭遇する事が増えます。

私の場合、身内としては、父親で有ったり妹で有ったり
近年、一番悲しかったのが
僕の長男孫の、もう一人のお爺さんの
トム爺との別れでした。

若い頃に、海兵隊として沖縄に来て
嫁のエミリーの母親と知り合い結婚しました。
アメリカへの転勤が決まり
後から母親を呼び寄せたのですが
到着の日に母親を迎えに空港に行ったのですが
予定の飛行機に、彼女は乗っていませんでした。

国際電話も普通には無い時代です。
連絡を取ろうにも不可能です。
トム爺は、何時来るとも分からない彼女を
空港に泊り込んで何日も待ち続けました。
勿論、着の身着のままで
トム爺を哀れんだ掃除夫から
ハンバーガーを恵んで貰った位です。

彼女が数日後に空港にやっと到着した時は
まるで、ホームレスのようだったそうです。
まるで、トムハンクス主演の
映画、「ターミナル」のようですね。

アメリカで兵役を除隊後
エンジニアの資格を取る為に大学に入ったそうですが
経済的には苦しく、トレーラーハウスに
一家は住んで居たそうです。



アメリカでエミリーと弟のトラビスが生まれ
一家は沖縄に戻る事になりますが
兵役を退いて、シビリアン(民間人)となった彼が
働く場所は、沖縄には中々有りませんでした。
彼は大工仕事までやったそうです。

トム爺は、嘉手納基地の将校用の飛行機のエンジニアとして
採用され、一家はやっと安定した暮らしを得ました。
エミリーもトラビスも普通に沖縄の学校に通ったのですが
トムさんを知る人が口々に言うには
とてもフレンドリーで、学校の行事や地域の活動に
貢献していたそうです。

長男から初めてエミリーを紹介された時
アメリカ大好きな僕ですから
そりゃあ、喜びました。
僕の小さい頃は、アメリカ兵相手のキャバレーをやっていましたし
回りはアメリカ人ばかりでしたから、そうなっちゃうのです(笑

二人の結婚したいと言う気持ちが固まり
当然の事ながら、両家の初顔合わせを
米軍基地の中に有るレストランで行う事になりましたが
僕はとても緊張しました。

会って見ると、とても気配りが有り
男らしく優しい父親でした。
長男孫が産まれた時も
ずっと産室の前で待って居て
孫が産まれた時は、男泣きしたそうです。

孫を誰よりも可愛がったトム爺でしたが
残念な事に、フィリッピンで勤務中に
心臓発作で、天国に旅立ってしまいました。
トム爺とは、孫が大きくなったら
キャンピングカーを借りて
皆で、大陸横断をしようなどと話していましたが
叶わぬ夢になってしまいました。



孫の為に長生きするんだと
人一倍健康には気を使っていました。
沖縄の地と人々を深く愛していました。
ダイビングが好きで船まで手に入れました。
勿論、二人目の孫のリイナを見る事は出来ませんでした。
前にも書きましたが
孫を抱く時、ふと僕の腕の外側から
天国のトム爺が一緒に抱きしめているような気がするのです。

出張三昧の僕一人では爺としては役不足過ぎます。
どうか天国から二人の孫を見守って欲しいと
トム爺を思い出す度に、祈っています。

  


Posted by goyaman at 00:27Comments(0)一般

2010年05月16日

アメリカからマイキーファミリーがやって来ました。



僕は末娘と、去年の夏にアメリカのマサチューセッツに住む
僕の叔母さんのファミリーを訪ねました。
皆に大歓迎を受け、とても素敵な一時を過ごしました。

金曜日に長男のマイキーファミリーが
東京にやって来ました。
彼は五歳位までは、日本で育ちましたが
米軍に勤める父親の転勤で、ハワイで長年過ごし
今は、マサチューセッツのフィッチバーグと言う街に住んでいます。

東京に五日間、その後沖縄で五日間、最後にハワイに五日間の
超豪華な、ロングバケーションです。
彼と奥さんのジンジャーは二度目
一人娘のセーラは初めての日本です。

僕は丁度東京に居るので、
英語の達者な長女と次女を伴って、東京を案内する事にしました。
何処に行きたいかを訪ねると
何と富士山に登りたいと(汗

頂上までは無理としても五合目までは車で行けますので
レンターカーを借りて、本日行って来ました。
マイキーは横浜の米軍基地に住んでいる時に
父親に富士の五合目に行った事が有るそうで
どうやら、自分の幼い頃に記憶を辿りたいらしいです。

天気予報を見ると晴れ後、曇りで
せっかく行っても曇りで富士山が見えなかったらと
不安を抱えながら、祈るような気持ちで出発しました。

小さな沖縄でしか運転した事が無い僕ですので
道幅が小さくカーブが多い首都高速や
皆が爆速で飛ばす中央高速
曲がりくねった五合目までの道は
相当疲れました。



河口湖に近づくと
ファミリーを祝福するかのように
曇っていた空も一変して
富士山の遠景も綺麗に見えましたし
五合目も晴れ渡り、マイキーファミリーは
オーとかオーマイガッドと連呼して
喜んでくれました(笑



マイキーとジンジャーが初めて沖縄に来た時は
娘達もまだ小さく、僕の周りに英語の達者な人が居ず
僕独りで、沖縄を案内するのは大変でした(汗

彼が開口一番連れてって欲しいと要望したのは
両親を結婚式をあげた場所に連れてって欲しいとの事でした。
慌ててアメリカの叔母さんに電話して聞いたら
何と那覇市の波の上神宮との事でした。
ご主人がアメリカ人ですから
てっきり、何処かの教会で式を挙げたと思っていたので
神社と聞いてびっくりしました。

彼が二番目に行きたいと言って来たのは
バスルームです。
お風呂でも入りたいのかと思い
シャワーを浴びるジェスチャーをしたら
違うと言うのです。

何度か拙い英語力でやり取りをしていて
行きたい場所が
バスルームでは無くバースルーム(産室)と言う事に気付きました(笑

東京の案内は、僕と娘二人にお任せと言う感じですが
沖縄では、僕の長男嫁のエミリーが案内してくれますので安心です。
彼女は当たり前ですが、バイリンガルですから。



富士山からの帰りは原宿に寄り
外国人に人気の日本のお土産やのオリエンタルランドと
原宿のキテイランドに行きました。
キテイちゃんはアメリカでも人気らしく
ジンジャーと娘のセーラは
子供のように喜んでいました。

明日は、娘のセーラの要望で再度原宿と
ついでの明治神宮へ
その後浅草で三社祭が有るので
お神輿を見に行こうと思います。

  


Posted by goyaman at 00:14Comments(1)一般

2010年05月15日

YAMAKI ギターNO.1150の拡大写真。

YAMAKIのギターを手に入れてから
ネットで検索して見ると
かなりのマニアが存在する事を知りました。

その中でも「YAMAKI解体新書」と言うサイトは凄いです。

http://dreamworks.fc2web.com/yamaki_daion/frame.html

僕は1973年には、MARTINを手に入れていましたので
その後のフォークソングブームの頃の国産メーカーには
詳しく有りません。

僕が初めてフォークギターを買ったのは
高校生の頃、確か1971年だったと思います。
東京に旅行に行った時に
御茶ノ水の楽器屋でJAMBOと言うメーカーの
65000円のギターを購入しました。





旅行のお金を全部注ぎ込んでしまい
飛行機では無く、三泊四日の船で
沖縄に帰る事にしたのですが
船は、食事付きだと思っていたのですが
乗船してから食事が付かない事を知りました(汗

二日間、水ばかり飲んで飢えを凌ぎましたが
ようやく知り合いに出会い
お金を借りて、船内で、初めて食べた
カレーライスの美味しさは
未だに忘れられません(涙

僕は東京の大学に進学して
フォークソングクラブに入りましたが
部員が持っているギターは
S YAIRI,YAMAHA,MORRISあたりが
多かった記憶が有ります。

前置きが長くなってしまいましたが
お約束のYAMAKIの拡大写真です。
サムネイルにしていますので
クリックして拡大してご覧下さい。

  


Posted by goyaman at 07:50Comments(0)ギター

2010年05月13日

YAMAKI NO.1150 とMARTIN D-45

先日、アルテ崎山で行われたMARTINを弾く会は
ギターを持って行った僕にとっても、とても勉強になりました。

ギターと言うのは、弾いている本人と
聴き手では、かなり音の印象が違うのです。

他には、ギターを弾く右手のポジションでも音は違いますし
ピック弾きか、フィンガーかでも同様です。

生音が凄くてもマイク乗りが良かったり
その逆も有ります。

僕がアルテ崎山に持ち込んだギターは四本でしたが
MARTINに関しては、聴く方に回っても
大体、予想通りでした。

しかし、意外な展開が有りました。
イベントの趣旨からは外れましたが
最近手に入れたYAMAKI NO.1150も持って行きました。

最初にMARTIN D-45を皆の前で弾き
その次にYAMAKI NO.1150を弾いた時、意外な展開が
皆の感想はYAMAKIがMARTINより鳴っていると言うものでした(汗

まずは、写真上で両方を比べて見ます。

MARTIN D-45


YAMAKI NO.1150


ヘッド部分は、MARTINはアバロン我意のインレイは入っていませんが
YAMAKIには入っています。見た目はYAMAKIの方がゴージャスです。
ヘッドの角は、YAMAKIの方が丸みが有りますので
よりビンテージっぽいです。

MARTIN D-45


YAMAKI NO.1150


二つ並べるとヘッドのブランド名以外では、かなり忠実に
コピーしています。一瞬、どっちが本家なのか
見分けが付きません。
表板は、MARTINがイングルマンスプルース。
YAMAKIがアデイロンダックに最も近いとされる
蝦夷松が使われています。
アバロン貝のインレイがMARTINの方が煌びやかですが
これは材がラミネートのせいで
YAMAKIの方がソリッドのアバロン貝が使われています。
こちらの材料もYAMAKIが上です。

MARTIN D-45


YAMAKI NO.1150


バック板はMARTINがインデイアンローズウッド
YAMAKIが貴重な、ブラジル産のハカランダで
今は、超高級なモデルにしか使われていません。
MARTINはサイド上部と下部にもアバロンインレイが有りますが
YAMAKIはサイドには有りません。

MARTINとYAMAKIの材料の違いは以上ですが
最初にも書いた通り
参加者の前で二つのギターを弾き比べると
参加者の殆どがYAMAKIの方が音が大きいと言うのです。

僕の気持ちは、半分ショック、半分嬉しい状態でした。
だって、本家のMARTINよりYAMAKIが鳴るんですから。

YAMAKIの方が、MARTINに比べて良い材が使われています。
それと1970年代初頭のモデルですから
経年変化でギターが育っていると言う事も有るのでしょう。

YAMAKIを手に入れて、部屋で両者を弾き比べましたが
正直、YAMAKIに対しては、良い材が使われていても
所詮、本家には敵わないと言う思いでした。

あの頃、MARTINのD-45は、アーチストが使っている写真を見るのか
後は渋谷のヤマハでガラスケース越しに眺めるだけで
とても試奏なんて出来ない時代でしたので
両者を弾き比べる事は不可能です。

部屋で弾くと、MARTIN D-45は倍音、残響、煌びやかで、音量も有りますが
YAMAKIは低音がおとなしめで、倍音、残響も余り有りません。
一弦から三弦も、固めです。

しかし、アルテのような広い会場で弾くと
YAMAKIの方が音が大きいと言うのか
客席まで届く遠達力が有るのです。

MARTINとYAMAKIを比べると明らかにYAMAKIが重く
材も厚いようです。
木材と言うのは、気候で変化し易く
まして、日本のように、冬は乾燥して
夏葉高温多湿な地域では
単板でギターを製造するとなると
よっぽど上手く作らないと
多くのマーケットクレームを覚悟しないといけません。

YAMAKIは、そういった理由から
頑丈に作り過ぎたのかと思っていましたが
沖縄にリペアマンが存在しなかった頃
バイオリン製作家にリペアを依頼していましたが
彼から聞いた事を思い出しました。

手元で鳴るギターは、材を薄くすれば(特に表板)簡単に作れるそうです。
ですが、遠達力の有るギターを作る場合
良い材料で、厚めの材を使った場合、遠達力の有るギターになるそうです。

僕は部屋でギターを奏でる事が殆どですから
防音上の問題も有って、爆音で鳴らす事は殆ど有りません。
ですから、軽いタッチでも鳴って、ボデイが響くギターが
好みになったと思います。
ですからYAMAKIの場合は、好みのMARTINの音の傾向とは
大きく違いますので、鳴らないギターだと
思い込んでいたのかもです。

ローズウッドとハカランダの音の違いは、まだ断言出来ませんが
ハカランダの方が、音は固めですが、強いピッキングでも
音が潰れないような気がします。
ギターの世界は奥が深いです。

残念な事に、YAMAKIのギターは現在は製造されていませんが
現在でも、全国にかなりのファンが居られるようです。
特にNO.1150やNO.1200のモデルは、市場にも中々出て来ないようです。
僕が手に入れたYAMAKIは前オーナーが殆ど弾いて無かったようなので
手元に置いて育てて見たいと思います。

次回は、YAMAKIファンの人達の為に、
YAMAKIの超拡大写真を、サムネイルで掲載したいと思います。
  


Posted by goyaman at 00:05Comments(4)ギター

2010年05月05日

アルテ崎山でマーチンギターを弾く会 大盛況の内に終了

首里のアルテ崎山で行われた、マーチンギターを弾く会は
大盛況の内に終了しました。
連休で家族サービス等でお忙しいので
来て頂いた皆さんに、感謝します。



中部地区で毎月集まって、腕を磨いている
アコースチックソロサークルの皆さんが
素敵なソロギターを聴かせてくれました。
最初は髭オヤジさんです。
MARTIN D-45でサザンの曲と涙そうそうの曲を披露。
豊かな倍音で煌びやかな音で、うっとりです。



プーリングソロサークルの小倉さんです。
最初にMARTIN D-28MARQUISで、押尾さんの風の歌と
D-45で、黄昏を披露
MARQUISはネックが太いので苦戦気味でしたが
D-45では軽快な演奏を披露してくれました。
僕は彼に会う度に黄昏をリクエストします。



同じくプーリングオフのサンルーフさんです。
何故か当日は、ソロを弾きませんでしたが
オリジナルでCMソングのバックにも使われた曲などを
披露してくれました。
彼の歌を聴いていると、加山雄三の世界を感じます。
沢山の素敵なオリジナルをお持ちで
トライアスロンの歌なども作っています。
皆さん光物に弱いようで、D-45を弾いています(笑



MARTINのD-28を持参してくれました。
話によると、嫁さんにプレゼントした
結婚指輪と同額のギターを
自分へのプレゼントとして購入したそうです。
彼もプーリングオフのメンバーで
素敵なギターソロと、高田渡からビートルズまで
伸びるハイトーンで弾き語りをしてくれました。



僕のブログの告知を見て来てくれた
アーケンさんです。
彼のブログを見てて、彼の実力を知っていましたので
BIGENの防波堤で見た夢をリクエストしましたが
甘い声で、抜群に上手かったです。



写真の左側の方も僕のブログを見て来て下さった方です。
中々のコレクターの方で、MARTIN 00-18SH ギャラガー
スミギターのシェリー等をお持ちです。

右側は僕がいつもお世話になっている
リペアマンの小野君です。
僕がギターを次々とゲット出来るのも
彼が居てくれるからです。
僕のギターは全て彼に調整して貰っています。
当日は、リペアに関しての講義をしてくれました。
びっくりしたのは、参加者の殆どが
彼のお世話になっていました。
いやあ、世間は狭いです。



やはり沖縄です。
三味線の弾き語りと、ハミングバードの宇良さんの
D-45のバッキングは何とも幻想的で素晴らしかったです。
彼は自分はギターが下手だと謙遜していますが
歌心が有るので、派手では無いのですが
D-45の低音弦をメインに使って
ベースとギターが入ったトリオのようで
聴いていて気持ちが良かったです。
三味線の突き抜けるような高音と
包み込むような倍音の強いD-45は
とてもマッチしていました。



元治さんのギターのバックで歌う、大木さんです。
彼の包み込むような優しいボーカルは素晴らしいです。
僕は初めて出会ってから、彼の人柄に惚れています。



このブログでも何回か紹介しましたが
これまたギターが縁で知り合った高橋さんです。
学生時代にYAMAKIのギターに憧れていたそうです。
マーチンよりもYAMAKI見たさに、来られたそうです。
彼もまた、人柄を表すように、優しく包み込む
素敵な弾き語りを聴かせてくれました。
彼のギター遍歴及は、多分、僕以上です(笑
僕が沖縄で始めて出会った
アコギ好きの方です。
最近は、自分でギターにアバロン貝で
インレイまで入れるほどです。
このまま行くと、ギター収集から
ギター製作に域に達しそうです。



沖縄に運転免許を取る為に来られた参加者の姪だそうです。
ギターを始めたばかりで、A7とDの二つのコードだけで
作った、オリジナルを披露してくれましたが
これがまた、素晴らしいのです!!
二つコードだけで、歌が作れるなんて、びっくりです。



このブログで初めて紹介する、元治さんの奥さんです。
元治さんの声量も凄いですが
奥さんの声量も凄くて、元治さんの歌に負けていません。
二人で迫力の有る歌を聴かせてくれました。



アルテ崎山のマスコットガールのユッキーナちゃんもボーカルで参加です。
本人は、ピアノの腕前は凄いですが
ボーカルも、伸びの有るマイク乗りの良い声で、聴かせてくれます。
楽器に負けない、通る声です。

ギターを四本持って行って皆に弾いて貰うのは
始めての試みでした。
思った以上に喜んで貰えて光栄です。

沖縄は、エレアコが主流のようですが
きちんとしたPAとその調整がされていれば
ライブでも、うっとりする音で鳴ってくれます。
それとエレアコはラインを通す時は良いのですが
ハウリングを防ぐ為に鳴りを抑えていますので
ライン無しで弾くと、生ギターに及びません。

アコギは独りで楽しめちゃう楽器なので
意外と同じ趣味の人と知り合うチャンスが
無いのではと思います。
沖縄でもアコギ好きの仲間が
どんどん広がって欲しいです。

今回、このイベントに場所を快く提供して下さった
アルテ崎山のシンデイさんと美也子さんに
心より感謝します。

  


Posted by goyaman at 02:39Comments(11)ギター

2010年05月03日

アルテ崎山でマーチンギターを弾く会、開催!!



※追伸!!

 当日は、僕が絶大な信頼を寄せる
 リペアマンの小野さんも来てくれます。
 所有しているギターでお困りの方の
 相談に乗ってくれます。

五月四日に、首里に有るアルテ崎山さんで
MARTINを弾く会を開催します。
僕の仕事の関係で午後八時頃
ギターを持参します。

このブログを立ち上げた目的は
30年間、仕事に明け暮れた僕が
アコギ好きの方達と知り合う為でした。
お陰様で、沢山の人達と
知り合う事が出来ましたし
アルテ崎山と言う素敵なお店を
宿木とする事が出来ました。

その集大成として
MARTINを弾く会を開催します。
今までMARTINを弾いた事が無い方
MARTINを持っているけど
他のモデルも弾いて見たい方
気軽に来て頂きたいです。
アルテ崎山に初めていらっしゃる方も大歓迎です。

東京では二年前に池袋の亜古木と言うフォーク居酒屋で
MARTIN D-45を弾く会と言うイベントを催したところ
びっくりする位沢山の見知らぬお客様が来ました。
僕は1996年製のD-45を持参しましたが
中には1969年製のハカランダのD-45を所有している方や
MARTINを100本持っている方などが来られましたが
流石の東京です。凄い人が一杯居ました。

今では普通の楽器屋でもMARTINのギターを見かけますが
僕の若い時は、中々、本物を見る機会が有りませんでした。
楽器屋でMARTINを置いて有っても
気軽に試奏も出来なかった時代でした。

ビンテージは有りませんが
沖縄に置いて有るギターの何本かを持参します。
ステージに上がらなくても結構です。
ギタープレイの上手い下手も関係有りません。

客席で試奏だけでも構いません。
尚、この会は、ギターの販売等
ビジネスとは無関係です。
これを機会に、ぜひ遊びに来て下さい。

またMARTINやGIBSON等のアコギを持っている方も
持参して下さると有り難いです。
それと外国製、国産を問いませんので
自慢のお宝ギターをお持ちの方も、お待ちしています。
同じ趣味を持つ者同士の新たな出会いの場になれば
素敵ですね。



※持参予定ギター

MARTIN D-28 MARQUIS
MARTIN D-18 1938 CUSTOM
MARTIN D-45 2000 CUSTOM
MARTIN DC-28
YAMAKI NO.1150

↓アルテ崎山のHPです。
http://arute.ti-da.net/  


Posted by goyaman at 00:57Comments(15)ギター